世の中には、だいたい
「こういう状況は、やばい」的な一般概念がある。
あるいは、「こういう状態は普通的に考えるとうまくいっていない」というような
暗黙の了解もあるし、なんていうか、みんなが
「疑いもせずに」信じ込んでいることがたくさんある。
でも、本当はそれを疑って欲しい。
・お金が稼げないのは、やばいことなの!?
・恋愛で片思いばかりは、ブロックがあるってこと!?
・両想いだけが幸せの形なの!?
・人付き合いが上手だといいの!?
・こどもがいい子でいてくれたら良い親なの!?
…
わたしがブロック外し、というものを一切やめたとき、
カウンセリング手法ががらりと変わって、
その人の変化が1時間から10分へと切り替わってしまった。
そこから、カウンセリングをすることは、
わたしにとって仕事ではなくなった。
だって、10分じゃあ、短すぎるから(苦笑)
そこから、カウンセリングもセラピーもやめた。
変える人がいなくなっちゃったから。
変えられる要素が見つからなくなったから。
単純に、
「相手の本音と相手をつなげる」ことしか
出来なくなってしまったから。
—–
昔、Facebookにこんなことを書いたことがある。
わたしが個人カウンセリングをしていた時、
究極の方法を見つけたことがある。
カウンセリングとは、目の前の相手を治すことでも、
変えることでも、AからBへと動かすことでもなく、
また相手から何かを奪うことでも、支配するでもなく、
もっといえば与えることでもなくて。
相手のごちゃごちゃ口から出てくる言葉をスルーして
『相手のなかに光を見つける』
こと、だと気付いた時。
それだけをやってみた。
相手の言葉は聞かない。信じない。反応しない。
ただ、ただ相手の奥にある光を探そうとする。
そして相手の変化が凄まじく早くなった。そこから私は、人が好きになった。
興味のない人はいても、嫌いな人はいなくなった。
だってみんな、良い人なんだもん。
誰も変える必要はなく、
その人を見る自分のフィルターを変えればいいってことに気付いたから。
だから、光を見つけることが得意になった。
—
これは自分にも使えます。
自分の頭や口から出る、グダグダな不平不満は受け流して。
光を見つけること。
すべてのことは、ただそーすれば、いいんじゃなかろうかねぇ。
——-
冒頭で書いたことも、結局このことが言いたかったのだ。
状況の中から光を見つける、というのは
問題を問題としている思考の中にいてははじまらない。
「これは問題だ」
「これはブロックだ」
「このブロックはやばい」
「こういう問題を持っている自分はやばい」
そういう思考の状態のままでは
誰も次のステージにいけない。
問題を問題として捉えるという階段から
一段上に上がってからでしか見えない光景があるように、
「状況の中から光を見つける」
「相手の中から光を見つける」
ことさえできれば、
ブロックなんて外さなくても前に進める。
—–
だから、私は決してブロックはずしもその概念が悪いといいたいわけではなく、
そもそもの問題意識を持っている状態から
一度ぬけだす必要があるってこと。
その視点になってみないと、見えない世界があるってこと。
シンプルに、ごくシンプルにそういうことが言いたいのだと思う。
そう書きながらも、
矛盾したことを思うことも書くことも提唱することもある。
「変われよ!」
といわんばかりの発信をすることもある。
いやはや、非常に矛盾しているが、
それはそれで、それなのだ、と思っている。
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こういう状態が良くて、こういう状態が悪い、という
極端な話ではなく、
もっと曖昧に生きてみたらいいと思う時がある。
自分も含めてだけど、
もっと肩の力をぬいて、
「今がどうであれ、それがひとつのこたえ」
だと思っていればいいという時も多々ある。
今日の答え。今のわたし。
明日の答え。明日の今のわたし。
そんな風に、
目の前にあるひとつひとつのことを
自分なりに考え、やって行くことが出来たなら、
本当に不安も恐れもなくなるんだ。
これは、わたしが実体験済み。
だから、不安や恐れがあれど、その感情をすんなり越えることが出来る。
—-
その中でも、ぜんぜん越えられなかったのが
「せつない」という想いだった。
だから、そんなときはいつも詩をかくつもりで、
昨日みたいにこういう言葉かいてみるんだ。
「このままでいい、と
あのままだったらよかったのに、を
繰り返しながら」
昨日はそんな気分だった。
伝わらないでくださいと願いながら、
どこかでちゃっかり伝わってしまえばいいと思うのは
まだまだわたしに人間味があるからだろうなって
一人思い、
きょうも、引き続きゆるめでした。
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おおさか、むかうなう。