その人、その未来、そのイメージにコミットする。
このコミットする、という決意は
同時にわたしたちに対して
様々な「不信感」のデトックスをもたらす。
だから、コミットしたのであれば、
その決意をまげてしまいそうになる現実がやってくるんだ。
誰かを愛すると決めたなら、
愛せない自分を目の当たりにするだろうし、
何かを貫くと決めたなら、
貫けなくなりそうな自分に萎えもするだろう。
そういうものなんだ、と
わたしは割り切っています。
そういう自分でいいんだ、って。
—
決めたことにぐらつくのは
悪いことじゃないと思うのです。
「ぐらつく自分」さえも受け入れて
「決めた自分との約束」を守ろうとする姿勢、
そのプロセスに意味があると思っています。
何かを決める、ということは
同時に何かを捨てる、ということでもあり、
かつ、決めたあとに見える様々な
「むかしの自分」と向き合っていく、ということでもあると思うのです。
誰かを守りたい、と思えば
無力な自分が見えるだろうし、
この人を信じたい、と思えば
信じられない自分に出会う。
それは、「ふつう」のことなのです。
「ふつう」だけど、「あたりまえ」のことじゃありません。
この矛盾を、たいせつにすること。
この矛盾さえも、いいかもなぁ、と受け入れてみること。
そういうところに
「コミットメントする」醍醐味があるんじゃないか、って思うんです。
信じられない自分、
ぐらつく自分、
ゆれる自分、
決めたのに、貫けなくなりそうな自分
に落ち込むのは
「決めたからこそ」なんですから。
—
誰かを愛する!とコミットメントしたとき、
ほんとうにコミットメントしたならば、
その瞬間から「相手」は消えます。
相手どうのこうのじゃなくなる、ってことです。
何かを信じる!とコミットメントしたとき、
ほんとうにコミットメントしたとすれば、
その瞬間から「結果」は消えます。
結果どうのこうの、よりも大切なことがあるから。
でも、ぐらつくんです。
「相手」が出てきたりするんです。
あの人は、あの人が、だってあの人は…
そうやって、たちまち「相手」が出てきます。
「結果」にたいしても同じです。
コミットメントしたにも関わらず、
「結果」は顔を出します。
数字が、結果が、お客さんが、お金が…
そうやって「結果」が出てくるんです。
—-
もう一度大切だと思うことを書きます。
これらの矛盾は、
ふたつでワンセットです。
コミットメントした!のであれば、
コミットメントできていない自分がよく目につくのは
ふつうのことなのです。
でも、
「あたりまえ」のことではないから、
あえてそこを大事にしてみる。
あえて「ぐらつく自分」に出会う次期を大切にしてみる。
そうやってね、すこしずつ
「自分との信頼関係」を築いていくんじゃないか、と思うんです。
—-
あなたは何にコミットメントしますか?
・・・わたしは最近、
「あること」にコミットメントすると決めました。
「相手」が消え、
「結果」が消え、
残るは、純粋な自分の気持ちだけ。
さて、ここから何が生まれるのかなぁ、と
楽しみながら、それでもなお日々、
コミットメントできていない自分にぐらつくのでした。
ま、いっか。
最後はいつも、これで終わるのだけどね。