分裂感、というものについて合宿の時に話していたことがある。
わたしたちの中には、誰しもがどこからやってきて
どこへ消えていくのかさえ掴めないような
分離感や孤独感というものがある。
そもそも、この感覚というのは
負の感情という言葉では片付けられない領域のものであり、
感情よりも掴めないからこそ、
人は呆然と恐れに包み込まれそうになる。
分離感、と書いたけれど、
分離意識、と書き直したほうがいいかもしれない。
そもそも「分離している」とはどういう状態だろうか?
一番わかりやすいのは
母親の中から出てきて、
プチってへその緒を切られた瞬間。
その時のことを鮮明に覚えている人はいないだろうけれど、
身体の筋肉はその瞬間の
「繋がりを断たれた」という感覚を
ひしひしと記録しているのだろう。
わたしたちは、そもそも分離意識を元に
この世を生き抜くための記憶を創り上げてきたのだ。
と思えば、実は色々なことがどんどん解決されていく。
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ただ、もう少し考えてみたいことがある。
分離意識というのは、そもそも
「もともとは つながっている」
という一体感からしか生まれない。
何かと繋がっていることを知っているからこそ、
分離という感覚が記憶に残る。
繋がっていなければ、
またその繋がりによる一体感や安心感を知ることがなければ、
分離されているということに
そもそも負の感覚や恐れを抱くことはないのだ。
そう。
分離意識の生みの親は一体感だし、
一体感を再び生むのもまた分離意識なのだ。
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そういうことを考えると、
孤独を感じたり、喪失感を感じたり、
あるいは無価値観を抱くことはなんらおかしいことではない。
また人間としてあるべき姿であり、
ちゃくちゃくと再び一体感を感じる道を歩んでいるのだということが分かる。
大体の場合、そうは思えずに分離感から離れようとあらがうのだけど、
そこから逃亡するかのように
別のことで心を埋めてみたり
(仕事に没頭しまくることや、ネット中毒になること)
自分の価値を何か別のもので計ろうとしたり
(数字や目標の達成などで有限的に計ろうとする)
そうやって分離意識から逃れようとすればするほど、
本来の生みの親でもある「一体感」や「つながり」とも
距離を持つことになる。
分離感のすぐちかくには
一体感があるのだから。
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孤独を感じたとき。
わたしはどうするか。
出来るだけ、何もしない。
ということをするようにしている。
なるべく仕事はしない。
孤独を穴埋めしたり、分離意識から目をそらすために
仕事を頑張ることは、
自分にとっても相手にとっても
「愛」ではないということが痛いほどわかったから。
だから、出来るだけ何もしない、
ということをする。
頑張るのをやめられない人、
頑張りたくないことを頑張らない、という実行にうつせない人は、
おそらくこの分離感や分離意識が生み出す孤独感に対して
変な誤解をしてきたのかもしれない。
ほとんどの人が誤解をしてきているのだけど、
ふとしたときに、
孤独感っていいな、と思う瞬間がある。
その瞬間とは、
たった今、孤独ではあるけれど、
楽しかったあの時や、繋がったあの瞬間が
この孤独感を生み出しているのだな、
と思えた時に。
分離意識とその横にある一体感が手をつなぐ気がするのだ。
ほら、私たちは一心同体だね、って。
どちらがかけていてもダメ。
光と影のような分離感と一体感。
どちらだけを感じる、という選り好みではなく、
交互に生まれる柔軟な感覚に身をよせたい。
そうすれば、
いつどんな時に、壮大な孤独感を感じたとしても。
その時は素直に泣き、素直に寂しいと感じ、
また素直に誰かを想う自分に出会えばいいと思うの。
一体感を想う。
そういう時じゃなければ、
人はそもそも分離感を感じることもないのだから。
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