今日は新幹線の中で、変な想像をしてました。
例えば、好きな人に
「何をされたら嫌いになる?」と聞かれたとします。
何をされたら嫌いになるかなあ、とイメージしてみました。
…が。
残念ながら、まったく思い付きませんでした。
逆も同じです。
「何をされたら好きになる?」と聞かれても、
答えられたとして、どうも嘘っぽくなります。
好きになった後、人は理由を頭で探しますから、
その時点で「理由が現実を生んでいるわけではない」
ということが分かりますよね。
逆も同じです。
嫌いになった後にしか、嫌いになった理由を考えることは出来ません。
だから、そもそも本質的に
「何かをされたから嫌いになる」ということはなく。
嫌いになる理由があったとしても、
それは既に「嫌いになった後」に生まれるものだから、
考えてもどうしようもない、ってことなんですわ。
——
これ、あらゆるところで使える解釈だと思います。
よく、理想の人とかをかかげますよね。
書き出して、イメージして、って。
でも、その時頭で考えている「理想」というのは
「好きになった後に気付くもの」だから、
理想のタイプが誰かを好きにさせているわけではない、ってことです。
ということはですよ。
人を好きになることも嫌いになることも
思考ではどうしてもコントロール出来ないのだから、
「何をしたら好かれるのか」とか
「何をしたら嫌われるのか」とか
そもそも考えても意味がない、ってことなんですわ。
よく、
「好きなのかどうかわからない…」と悩みだした時点で
もう好きということだし、
好きでいるのをやめたい!やめよう!
とする時点で好きすぎるということだし。笑
ほんとうは、本音の部分にただ正直でいればいいのですが、
思考はどうしても「好きでいる理由、好きになってもらう理由」を探し、
そして「その証拠」を見つけようとします。
「わたしが愛される証拠」みたいなのをね。
それが、実は邪魔なんです。
探すからどんどん自分から分離していくんです。
そんなのものは本当は自分の中に既にあったのに
中にあって一体化しているがゆえに
目の前に出して手に触れたり見ることは出来ない。
もし、自分が愛される証拠を
「見たい、触れたい、ちゃんと証明したい」
と思った瞬間、
その内側にあった証拠は自分と分離しなきゃいけませんよね。
これがそもそもの不信感の元なんです。
見ることも触れることも出来ないけれど、
内側でタッチ(触れる)ことは出来る。
それが感動(タッチする)というものにつながるんじゃないかなあ、
と思って、今日はひとりほっこりしているのでありました。
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さーて。
今日は19時~20時 虹の和チャンネル生放送します!
ユーストリームの接続が悪すぎて断念すること2回…
今日はうまくいきますように!