わたしには、
「優しくしなければいけない人」
がいないように思います。
また、わたしには
「癒さなければいけない人」もいないような気がします。
さらには、
「持っていなければいけないもの」もないように思うし、
「言わなきゃいけないこと」もないように思う。
「~ないように・・・」と書いたのは、
そうじゃない幻想の時もあるよ、ってことであり。
物事が光と影の両方を持つのであれば、
けっきょく何を持ったって何をしたって同じだと
今はわかったからであります。
—
優しくしなければいけない人がいなくなったのは、
自分の中に「優しくできる私」が必要じゃなくなったからです。
意図しなくても
わたしはわたしであることで
存分の価値を持ち、そして影響力を持っているからです。
優しくしなければいけない人を周りに生み出す時、
つまり、
「かわいそうな人」を
周りに生み出すとき。
かわいそうな自分を、外に外に出さないようにしようしよう、と
どこかで無意識に頑張って、
強くてかっこよくて優しい自分を演じようとします。
外と内はいつも協力体制にあるので
「わたしが求めていないこと(わたしが意図していないこと)」が
外側に現れることはありません。
認めたくないこともありますが、
すべて自分が引き起こしたくて引き起こしているのです。
—
昔、わたしの周りにある「癒してあげたい人」がいました。
そして、その人にずっと心の中で言っていたのです。
「わたしが、その心の溝を埋めてあげたい」って。
「あたたかさをあげたい」と。
「優しさを与えたい」と。
極めつけは、
「あの人にはきっと、愛が必要なんだと思う」って。
その人が完璧に満たされていて、
その人なりの状況で本人は満足していて
愛に満ちていて、癒されるところなどなく、
とてつもなく優しさに満ちた人なんだということを、
その時のわたしは認められませんでした。
わたしが、その人に見ていたのは、
紛れもなく自分自身です。
だから、どうしてもうまくいかなかったんですよね、
その人との関係が。
空回ってばかりでした。
—
振り返ると、ある面白いことが分かります。
その人との関係が一変したきっかけは、
「わたしが、わたしの中にある結論」を見いだした時からでした。
その結論とは、
「誰かに優しくしようとして
自分の穴をうめることは出来ない。
誰かを癒そうとして自分の傷を癒すことは出来ない。
できることは、わたしがわたしを幸せである状況にする責任だけだ」と。
そう、あるとき思ったのです。
わたしの中にあった「無価値観」を
その人に投影して、相手を
「さみしくて、切なくて、癒されたくて、愛されたい」
人に仕立て上げていました。
そして、それをしてあげることが出来るわたしは
「なんてすばらしい存在だ…」と。
そう、感じよう、感じようとしていたのです。
ところがある時から、幻想から覚め始めます。
「わたし、この人に幸せにしてもらえないかもしれない」と
思い出すようになります。
相手とのことがうまく行けば幸せであるはずだと
思い込んでいた私にとって、
「この人は私のことを幸せにしていない」
と認めることは結構な勇気がいることでした。
なぜなら、
相手は私にとっての「癒すべき人」であり、
「愛すべき人」であったから。
認めるのが怖かったんですよね、
相手は相手のままで完璧だと。
そして、相手は何も求めていないかもしれない、
大切なのは相手が何を求めているかではなく
「自分が何を差し出したいか」だと。
それをごっくんしてから、
ずいぶんと気が抜けて。
そこから誰に対しても自分のさみしさを投影するのではなく
「完璧なる相手」を見るように努めました。
不思議と、そこから「その人」との関係が変わっていったんですよね。
自然と、お互いに求めあうようになりました。
—–
今でも、
「優しくしてあげなければいけない」と思う人や
「癒されたいに違いない」と見える人。
あるいは
「ちゃんとしてあげなきゃいけない」人や、
「特別扱いしなければいけない」と感じる人が周りに生まれたとき、
私の中に、どんな想いがあるのか?を
再確認するようにしています。
以外と、人間ってかわいいもので。
単純にさみしかったり、
不甲斐ないだけだったりなんです。
ついつい、「強く」生きようとしてしまうわたし。
そうすればするほど、「弱さ」が露呈されるにも関わらず、
何でも出来る~を装ってしまうことがあります。
最近は、そういうのもやめました。
疲れるからです。
かっこつけたくなくても
かっこつけてしまうものだから。
意識的に格好わるい自分のままでいても、
それはそれでちょうどいいのかもしれない、と。
今はそう思います。