ここ2年ほどは、「自信」という感覚がもはや存在しない。
自信がある、とか自信がない、とかが
自分の中でたいしたことじゃなくなっている、ということだ。
人はよく、何かの行為や行動の
超重要なポイントとして
何かと「自信」という言葉を使いたがる。
だいたいそういう人に限って、
そもそも「自信」とはなにか、根本的に答えられない人ほど
この言葉を使うのだけどね。
自信とは何か。
本質的に自分の中にその答えが生まれたとき。
人は「自信」というものが必要なくなるんじゃないか、と思う。
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だから、はっきりいって、
わたしに「自信とは何か」と聞かれてもあまり答えることが出来ない。
なぜなら、あまり興味がないし、
あまり考えないし、
あるとかないとか、そういうのが自分の中に重要項目として存在しないから、
自信とはこういうものであり、
こういう感じである、と説明が出来ないのだ。
よくよく考えると、
例えば誰かを好きになったとき、その理由だとか
どれだけ好きかとかちゃんと説明できるときほど、
実はそんなに好きじゃなかったり、
どこかまだ、拒否していたりする。
でも、だんだん本気で好きになってくると、
そもそも好きであることがなんなのか、どういうことなのか
また、これの理由は何か、と説明することが出来なくなる。
人は、自分のなかに「入っているもの」は
ちゃんと説明できないようになっているのかもしれない。
だから、
私の中にちゃんとした確固たる「自信」みたいなのが入っているから、
だからわたしはそれを説明できないし、取り出せない。
そして、見えないし触れないし、そもそもその必要も感じない。
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自信があったりなかったりすることは、確かにある。
不安だな、と思う理由が「自信がないからだ」と
人は簡略的に言ってしまうのだけど、
それって
不幸せだな、と思う理由が「お金がないからだ」というのと
同じ気がする。
不安と自信は、本質的には何の繋がりもないのに、
まったくもってそうであるように思えるから、
誰も繋がりを切らない。
本当は繋がっていないのに。
本当は、不安と自信は何も関係がないのに。
だから同じくこういうことが言える。
自信と成功や、自信と結果、というのも関係がない。
自信と気持ちの楽さ、も関係がない。
これらを切り離してしまえば、
そもそも存在しない「自信」なんてもんをつかむ為に
必死に何かを頑張る必要はないのだ。
手に入らないものを欲しがって頑張るからむなしい。
自信なんて手に入らないと思っていたほうがいいし、
むしろ、手にしたところで維持するのが今度はたいへんだ。
だから、わたしは自分の中で
「自信=◎◎」みたいに勝手にリンクさせていたものをすべて切った。
必要ない、と思った。
実際に必要なかった。
わたしが楽しく生きることも、
仕事が恋愛がうまくいくことも、
何かの結果が出ることも。
「自信」なんかとは一切関係ない、と割り切ったの。
ずいぶんと、重い荷物が降りた気がする。
そして荷物が乗っていた背中からは翼がはえたみたいだ。
まる。
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