幸せというものには本来定義がないはずなのだけど、
自分の中で「幸せとはこうである」という成功像みたいなのを
一度頑につくってしまうと…
本当はそれとはちょっと違うところから
別の幸せのカタチがやってきて、
もうすぐちかくにいて、手を伸ばせば掴めるのに、
掴めない。掴もうとしない。
また別の「絶対に掴めないもの」を創りだしては
架空の成功像に向かってはしっていく…と。
これがね、「悲劇のヒロイン」である自分を
創り続ける人の深層心理なんです。
それは、自分がつくった方程式に執着しているからで、
自分がつくったイメージ象を達成することにこだわっているからで。
きっとどこかで
「がんばっている自分=成功」
「がんばらない自分(達成しきった自分)=失敗」
みたいな方程式ができているのでしょうね。
あるいは、
「不幸の中でしんみり生きる自分=美しい」
「幸せの中でゲラゲラ笑う自分=美しくない」
みたいな。
ほんとうに大切なのは、
今、ここを、とにかく幸せだと感じて生きること
だと、わたしは最近つよく感じます。
というか、腹からそればかり選択するようにしよう、と
改めてそう、決心するような出来事も多くありました。
ちょっと話はかわりますが、
この仕事をするようになったいちばん最初の頃は、
自分がこころのことや、潜在意識のことを伝える身として
不安があったり、感情的でいてはいけない、
と思っていました。
また、自分に対して
「こういうことを発信しているのだから」
といっては、
引き寄せることや思考の現実化がいつも完璧でないといけない…
そうやって、どんどん自分の表現の幅を
狭くして苦しくなった時期もあります。
とあるときからわたしは、
「秦由佳」という人物を通してすべてのことを表現しよう、
と思うようになりました。
楽しいことや役に立つこと。
とても美しい世界や、真実味のあることだけではなく
その奥にある、たいへんなこと
できなかったこと、苦しかったことやその原因、
ゲスだと思われる自分も
ぜんぶ、余すことなく表現しよう、と。
なぜなら、
どんなものであれ、生まれたものには
それなりの美しさがある、と思うからです。
コンプレックスであろうと、
人には言えないような「思い込み」であろうと…。
とてもじゃないけど、自慢できるような状態じゃなくたって
わたしは、今、こうなんだから、
それそものが一つの作品であるという視点で
すべてを表現しよう、と。
そこから、何も隠さなくなりました。
もしかすると、少なくとも人々に啓発を伝えているような身としては
不適切と思われるかもしれないけれど。
失敗したことや、できなかったことも
ぜんぶ、誰かの為になるということを知った今では
何かを特別に選んでかっこつけるようなことはなくなりました。
そこからだと思います。
成功させようとする声のボリュームが少しずつ小さくなっていったのは。
そこからです。
どんどん受け入れられることが増えたのは。
————–
ここまでが、先日の無料メルマガで書いたことです。
わたしがわたしの原点にどんどん戻るたびに、
自分を守る為にやっていたこと全てが必要なくなっていきました。
おもえば、心理学のことを
猛烈に研究し、
寝ることも食べることも忘れて没頭したあの頃。
もはや好きだからとかやりがいを超えて
何かに取り憑かれていたのは
わたしがとにかく別の人間になろうと必死だったからだと思います。
もちろん、それがあっての今、だからこそ
わたしはその時の自分には感謝しかないのですが
どんどん、どんどん、
他の誰になる必要もなく
とにかく今ここの自分を生きることがベストでありベターである、
という風になってから
…頑張れなくなっていきました(笑)
ブログの更新やこの業界において
ガンガンビジネスを展開させていくことも、
チカラが湧いてこなくなりました。
もはや、没頭できないんでしょうね。
だからこそ、人は進化したり変化したりするのでしょう。
根本的に必要がなくなってきたから、
わたしは次のステージに進むことにしました。
それが、4月から通う、ミュージカルのスクールだったりします。
(FBでさらっとお知らせ済み。ブログでは初のお知らせです。)
でも、昔のクセは残っています。
誰かを啓発したくてたまらなくて
(それが自分の評価に繋がっている気がして)
とにかく自分をどこかに残したくてがんばって
(そうしないと自分が消える気がして)
そうやって、ほんとうはやらなくてもいいことを
わざわざ「やらなければいけない」と思うように自分を誘導してしまうクセが
今のわたしにはまだあります。
かといって、もう昔のように戻れないなぁ、
と思う時の方がおおくって。
ほんと、変な話だけどブログが3回も削除されて
よかったのかもしれない、と思ったり思わなかったり。
(昔から知ってくれている人は
文体や雰囲気そのものの変化にびっくりしていると思います)
今のニュートラルになったわたしから見れば、
すべての答えは真実であるんです。
すべての人の中に生まれた答えは
例え自分の価値観とは違っていようと、
相手の存在そのものを示す一つの象徴のようなもの。
何一つ、否定はできないんですね。
同時に、肯定も、できなかったりします。
というか、世界に対する防御を外し
いろいろなところに対する緊張をほどいていった先に残るは、
「何も正しいことなどひとつもない。
そして、正しくないことも何一つない」
というわたしの体感的結論だったから。
だから、何かを特別に肯定したり、
逆に何かを特別に否定することで進もうとするのは
わたしには意味がない行為となってしまったんですよね。
で。
結局何が言いたいか、と言えば
…人は変わるねー、ということです(笑)
同じように、やりたいことも変わる。
食べたいものも変わるように、
考え方も変われば、没頭できるものも変わる。
変わらないものなど何もないこの世の中で、
「ぜったいてきなあんしん」
みたいなのを、お金や恋人や仕事やその他の
「それっぽいもの」に任せていると、
どんどん固くなって、
どんどんカーブが曲がれなくなって
どんどん、自分もわからなくなっていくなぁ、と思います。
特別な言葉、方法、ツール、条件じゃなくても
自分の存在、発するすべて、暮らしのそぶりや
ふとした横顔。
そういったところに自分の「豊かさの種」みたいなのは眠っていて。
そういうのに気付いたところから
世界に対する関わり方が変わってくるんじゃないかな、と思うんです。
だからこそ、今のわたしには特別な目標も
特にたいした夢も希望も、あまりありません。
やりたいと思うことはたくさんですが、
それには依存しないし、方法には依存しないし、
どこにも「絶対に」は置かないようにしているのです。
変わる自分をまず先に許す。
変わる誰かにたいしても優しくなれる。
こう、書こうと思った理由は
ほんとうは変わる時期真っ最中なのに、
何か特別なツールや方法にこだわりすぎて
がんじがらめになる人や
そういった感想メールをもらったから。
いいんですよ。
何も決めなくて。
「決まっていくことを大切に」
「決まっていく様を観察で」
そんなくらいで、いいんじゃあないでしょうかね。