もし、自分を許せていない人がこの世にひとりもいないとしたら…?
あなたは今日からどう過ごす?
何を見て、どう感じて、
どんな言葉を発信する?
そんなことを考えてみたいと思いました、
雨の日、今日はオフです。
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今朝は、自分のことを許せていないだろうな
と思う人の夢を見ました。
許せていないだろうな、と思うシーンも
また、自分がそれに対して罪悪感を抱いているシーンも
夢に出てきました。
そんなことをきっかけに、
あの人この人が自分を「許していないに違いない」
という想いが自分の中にもあるのだ、とはっきり認識した時。
はて、それが事実かどうかはおいといて
わたしはそのような認識を潜在的に持っている必要は
これからもあるのだろうか?と考えてみました。
おや、もしかしたら
「許されていない」と思いながら
実はわたしが相手のことを一番許せていないのかもしれない、と。
また、相手をきっかけにして思い出される「自分」を
許せていないのかもしれない…と。
そんなことを思うのです。
—
誰の中にも「許せない」想いと「許されていない」という疑心が
どっかしらのなかに存在しています。
そのわだかまりが私たちの中にある
「ルール」をつくっていくために必要な罪悪感と化し、
おのずと自分のことを制限していきます。
仕組みとしては理解できるのですが、
こころというのはそれだけではどうにもならないもの。
罪悪感は生きる上で必要なルールを握っておく為に
必要な材料なんですね。
これをどうしようかと言われれば
わたしは特にどうすることもなく、
ただじっと、その罪悪感の手放せない先にある「なにか」を
見つけていくことにしています。
持っていたくても持っている必要がある、と
頑なに潜在意識が思っていることは
どれだけ頭を駆使しても手放すことができません。
逆に、罪悪感の先にあるものを見つけることができれば
きっと許すことも許されることも容易くなる。
そう捉えた時に、
ある事実にいつも出会うことになります。
—
実は誰のことも恨んでいない。
誰のことも憎んでいない。
それに、誰のことも許せていないことはないし、
逆に言えば
「誰かに許されていない」ということも、ない。
確かに、わたしがかつてしてきたことで
嫌な想いをしたり、辛い想いをしたりで許せないという人はいるのかもしれません。
でも、確かめようのない事実なのに、
ずっと自分の中で「わたしは許されていない」と思い続けることは
あまり意味がないことのようにも思えてくるのです。
結局、
「許されていない」と思いたい。
そう思うことで
その人との深刻な繋がりを断ちたくない…という
密かな想いがあるのかもしれません。
じゃあ、なんだ、あれか、と。
わたしは「許されたくなかった」のかもしれないし、
「許されないほど相手にとっての重要人物でいたい」
のかもしれない。
そんなことを考えてくると、
もはやばからしくなってきます。
罪悪感というものも、ばからしくなってきます。
(愛らしくもなってきます)
で、最終的な結論として
「そっか、許されていないとしがみつく必要は
ないのかもしれないね」と思いつつ、
「でも、まだ許されていないことにしておきたいな」
とも感じ、罪悪感という名の
相手とのつながりを断ちたくないのだろう、という結果に至るのでした。
で、いつものお得意の
「ま、いっか」
これにて、今日は終了し
しっとり雨の日のオフを楽しみたいと思うのでした。
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さて、オフはオフなりに仕事をしたいわたし。
ということで、今日の夜はメルマガを発行します。
20時には届くかと。
迷惑メールボックス、注目しといてね。