【父と母と記憶と闘いと】
珍しく「両親」についてのネタがセッションで出てきたので、
今日はお父さんとお母さんとそれにまつわる「記憶」の話。
誰もが一度は、やってしまうことがあります。それは、
「おとうさん獲得選手権」
「おかあさん獲得選手権」
お父さんとお母さんの何を獲得するか?
それは「愛情」や「思いやり」や「注目」や「想い」
総まとめすると、
「私があなたたち(両親)にとってどれだけ重要な存在であるか」
を確認するために、
あれやこれやと手を尽くして獲得しようとします。
獲得する為には、闘う相手が必要です。
人によって、その相手は様々。
他人である場合もあれば、お金であったり、恋愛であったり、
なりたくもない自分になろうとすることで、
その闘いに勝とうとします。そして、「再びGET」しようとする。
「お父さんとお母さんの真心と関心と愛情と目線となんとかかんとかと…
(数えきれないくらいの何か)を」
誰の身にもあたり前のようにおこるあたり前の自然現象。
それがこの獲得選手権です。
ここから抜けることができないと、主導権を父と母の愛情に委ねてしまう。
そして、人生の目的が「両親の愛情獲得選手権」で
終わってしまうのです。
ここから卒業する時、人は獲得しようとすることをやめます。
やめようとするときに、今まで獲得の為に頑張ってきたことをやめようとする。
そして、やめようとする時に、向き合わされる現実がある。
「闘っていたもの」との決別が、この時。
獲得選手権のステージから降りる方法は色々ありますが、
そうですね…わたしは。
…自然と、降りてました(笑)
ゼーハーゼーハー言いながら、一つ一つの現実と向き合いながら
いつの間にか、そのステージから降りて
今、両親はただの友達のような関係になっています。
(少なくともわたしはそう思っている)
具体的な方法を言い出したら2日間くらいの合宿になっちゃうけど、
簡単な方法はそうだね…。
さっさと認めてもいいのかもね。
あの人達も不完全な人間で、いつも自分のことばかり考えて
ぜーんぜん感情も未熟なのに、それでもワタシを育てた人間に違いない、って。
今言えることは、それだけです。
(なぜなら、はやくお風呂に入りたいからです。半分嘘です)
——
とまぁ、ここまでFacebookに書いてですね
せっかくなのでと思い、お風呂に入る前に
ちょっと続きを書いておこうかと思います。笑
この闘いのステージから降りる為には、
ちょっと残酷な話ですが、
「嫌というほど闘いぬかなければいけない」
と、今では思っています。
そうです。
「いやというほど」です。
そう伝えると多くの人は
「わたしはもう、嫌というほど…」とか
「もう、いやなんです」
という人がいます。
そういう人に限って、
心の底から自分の両親を敬愛し、尊敬し、愛おしいと思うことが
まだまだ「したくない!」って思っていたりするのです。
なぜなら、両親の愛情を獲得する闘いの途中では、
麻薬のような「中毒性」があるから。
ちょっとでも何かと闘って、勝った気になると、
どんどんやめられなくなる。
でも、そもそも「獲得」しなくたって
あなたの両親は「すでにいる」わけだし、
あなたへの愛情も注目も想いも、既に「ある」わけで。
でも、獲得選手権が面白いしやめられないし、
ずーっとそれを続けたいから
何かしら「敵」をつくり続けようとするのです。
(タバコとかお酒とか中毒性のあるものをやめられないのと一緒。
身体に悪いとわかっていても、それらは思考だけではやめられません)
わたしが、このステージが面白くないと思ったのには
色々な段階があり、一口では言い切れませんが
ある象徴的な出来事がありました。
それは、2年ほど前。
わたしがちょうど、福岡のあるお方の家にお邪魔したときでした。
わたしの家族が昔からお世話になっている方のおうちで、
会うのはとても久しぶり。
小さい頃のわたしや、わたしの両親の様子を
ずっとそばで見てきた人たちです。
最初は和気あいあいと、
たわいもない近況報告をしたり
会えなかった分の年月を埋めるように
お互いの話をしていました(とは言え、わたしの話をたくさん聞いてもらっていました)
その時、突然、父の話になります。
わたしは、1歳未満で父と離れ、6歳で再会。
そこから一緒に暮らすのですがすぐに単身赴任…という感じで
正直あまり「お父さん」と思えるような感じでもなく、
なんとなく距離があった時期を大学卒業まで過ごしました。
本当に、わたしは家族が嫌いだったのですが
何よりも父のことが大嫌いでした。
恨んでいる、というか、なんというか…。
そういう気持ちがあったし、
それがきっかけで心理学にものめり込んだんです、
というような話をその方にした時に、
ずいぶんとがっかりしておられました。
理由を聞くと、こう言うのです。
「いいかい?由佳ちゃん。
君のお父さんはね、君とお母さんを残して
ひとりで頑張っていた時に。
ぼくにこんなことを言ったんだよ。
『ぼくは本当に悔しい。
もっと才能があって、日本語も上手で、お金があれば
二人を迎えることができるのに。
ぼくはとても悔しい…』と。
きみのお父さんは、ずっと君のコトを考えて
一生懸命ひとりで頑張っていたんだよ。
お母さんも同じ。
いつも君のことばかり考えて、一生懸命仕事をして、
日本語を覚えて、お金を貯めて
やっと君のことを迎えられたんだよ。」
…と。
何も言えませんでしたね。
頭でわかっていたとは言え、身近な人からリアルな話を聞いたと思いました。
ストレスだらけだったろうに…
わたしは、なんていう勘違いをしていたんだろう、と。
その時ですね。
たぶん、この話を聞いたときからわたしは闘いのステージを
ゆっくりと(いや、結構なスピードで、かも)
降りていったのです。
—–
色々な家庭があると思います。
このネタにワタシがあまり触れないのは、
ナイーヴな内容であることを、自分がよくよくわかっているからです。
闇の真っ最中にいる人は、
自分が今、どの位置にいるかわかりません。
だから、何か不都合なことを言われても、
耳に入らないし、信用ができません。
だから、わたしはあえて「家族ネタ」には触れないようにしています。
先ほど書いたように、
本人が本当に痛い目を見てから「でしか」
そのトンネルは抜けられないし、
抜ける価値はないから。
お手伝いはできたとしても、
自分の中に「父と母(と、そのもっと上まで続くたくさんの先祖)がいる」
と腹オチするまでは、その人なりのタイミングってもんがあるのです。
ただ、確実に言えます。
誰の為でもなく用意された「自分の為の人生」です。
ただの獲得選手権の為だけに終わらせることはありません。
多分、神様とか仏様とか守護霊様とか(あまりわからない人間ですが)
そういうのが、許さないんじゃないか、って
いつも思うんです。
だからこそ、あちこちにメッセージを落としてくる。
この記事も、あなたにとってはそうかもしれない。
「闘いのステージから降りてください」のヒントは
あっちこちにあるんです。
そのヒントが与えられているってことは
既にその時点で、自分の人生を歩みだしている、という証拠。
焦る必要はありませせんが、
いつまでも両親獲得選手権に付き合ってらんないわ!
とどこかで強く決断することは必要なのかもしれません。
今、わたしは自分の両親が
わたしを作ってくれた存在であることが
ほんとうに ほんとうに ほんとうに嬉しく、
尊く、そして有り難いです。
嫌いなこともあれば、嫌だったことなんて
山ほどあるけど
そういう記憶はなんら、わたしの人生に影響を及ぼさないのです。
ただの記憶、ただの事実。
今のわたしに必要なのは、
彼らとの過去ではなく、
これからの未来。
だからこそ、わたしの中にはもう
両親は「存在している」し、
彼らの中にもわたしが生まれたときから四六時中「はたゆか」はいる、と。
そんなもん、確かめなくたっていいやーと思えた時に、
また違う関係が、持てるのかもしれませんね。
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