変わってゆくものも沢山あるけれど、
その奥は常に変わらない、変わることがない
何か軸のようなものによって動かされていること、
忘れずにいたい。
今日は、張り切ってブログを書いたのに、
2回も消えちゃってなんだか萎えてしまいましたが(笑)
ふぅーっと深呼吸し、
そして消えた二つの記事に心をよせてみた。
あの二つの記事はどれもしっかり書いて、
読み応えのあるように、と意識していたけれど、
はて、その二つの「共通する奥」
はなんだろうか?
そう考えた時に、冒頭の言葉がでてきた。
—
わたしたちは、常に変わっている。
昨日考えたこと、
今日は考えるのも嫌になったりするし、
今日考えていたことを
明日また別の角度から考えるようにもなる。
表面的なことは変わっていくように思うけれど、
結局、内側にある感覚、
というものは変わらないのだろう。
それでいい、し、それがいい、と思ったそんな一日。
何がどうであれ、
どう変わってどのように流れていったにしろ、
自分を自分として受け止め、
生きていくことだけはずっと変わらないような気がする。
いくら人は死なないと言われても、
意識は永遠だとか、
ずっと存在するものだと言われても、
やはり、誰もが「自分の存在」を
変わらず自分以外の誰かの中に残していたいと思う。
あの人に、この人に。
覚えていてほしい、思い出して欲しい、と思うのが人間のいいところだし、
自分が消えても、誰かが覚えていてくれることが
ひとつ、生をささえるものとなる。
ごく当たり前のことだけど、
わたしたちは、わたしたちだけでは完結できない。
自分ひとりでは、生きていけないのだ。
—
立ち止まったときは、
もっと外側の何かと自分をコラボさせて完成することを
望んでもいいのだと思う。
それこそ、たくさん勉強した人こそ、
「自分でなんとか」や
「自分の内側だけで満たされる」こと、
そして
「自分のことは自分だけで」
という感覚を手放してみても、いい。
わたしたちは、誰かや何か、社会とか
もっと個人的なコミュニティーとか、
それか特別なあの人やこの人に、
「覚えててもらいたい」
と思うものだし、
そういう弱い生き物なのだ、と思うの。
かつてのわたしは、心理学やスピリチュアルを勉強しすぎて、
すべて内側で完結させることが
一番だと思っていた。
誰かを求めてはいけない。
執着してはいけない。
依存してはいけないし、
自分の心の穴は自分でふさがなければいけない、と。
今はそう、思わない。
もっと外側に対して、
気楽に、気軽に、
「ねぇ、わたしのこと、わたしの言葉、
覚えていてよ?」と
平気な顔して言えるまでに、なった。
それは一つの強さであり、
また執着できることというのは、ひとつ人間としての
ある種の生きづらさを生むことになり、
また、その生きづらさはわたしたちと誰かをつなぐ架け橋にもなる、と。
そう思えたときから、
わたしは内側にも外側にも、優しくなった気がする。
気がする、だけなのだけど、ね。
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