問題をにんじんみたいにぶら下げて、
それめがけて頑張るスタイルもアリかもしれないけれど、
何一つぶら下げなくても自分は自由に走れることを知ったとき、
ありとあらゆる悩みや問題は
出ては消え、出ては消えてなくなる。
でも、人はにんじんをぶらさげて走りたい。
そうすることで、どこか安心する。
それに向かえばいいのだ、と。
それさえクリアすればいいのだ、と。
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そういう性質と上手に付き合う、
ということは
わたしたち人間がもつ
本能的な、
なんというか…
「足りない」を生み出して
そこから何かを行おうとする習性と
上手に付き合っていく、
ということだと思っています。
ついつい、探しちゃう問題点。
ついつい、にんじんぶら下げなければ
つまらないと思っちゃう。
本当は、そんな走り方しなくても、
自分らしく自由に駆け巡ればいいと分かっていても…。
ついつい、そうしちゃう。
それが人間っていうものだな、と思ってます。
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でも、思い切ってにんじんをぶら下げるのやめてみたとき。
最初は景色が見えすぎて、驚くかもしれない。
視界が良すぎて、慣れないかもしれない。
自由すぎて、あたふたしてしまうかもしれない。
今さら、駆け巡れない、
問題が欲しい、
もっと課題が欲しい、
もっともっと、私が
「ダメな理由がほしい」
と、
にんじんを探そうとしてしまうかもしれない。
でも、少しは休んで、
美しい景色を見てみたらどうだ?
と神様が言ってくれることがあるんです。
それは、とてもさりげない方法だったり、
なかなかピンと分かりづらい方法だったりで
伝えてきます。
そう、神様は、とっても
微妙なヒントを、散りばめてくるのです。笑
揺れ動くその中で、私たちが私たちの
本当にある姿を常に教えてもらっている。
景色をみてごらん。
走るのを少しやめて、
目の前に何かぶら下げるのをもう終わりにして
用意されたすばらしい光景を
味わって見なさい、と。
ほんと、わたしはそういう風に感じる毎日を過ごしている気がします。
わたしたちの本質は、
枠も区切りもない、本当に制限のない自由なものなのですが、
それを受け入れることがイヤで、
もっと何か条件や理由や問題を欲しがって
誰もがちょっと、葛藤する。
ほんとうの自分と、
創り上げた自分との間で
みんな、揺れ動いている。
この話にオチはありませんが、
あなたもわたしも、そういう生き物なのです。