先日、とても気になる記事をふと見つけました。
とはいえ、
タイトルだけ読んで中身は見てないのですが、
そのタイトルがこのようなものでした。
「おちつきのない子どもに対して与えると良いナントカカントカ」
…すみません、うろ覚えです。笑
ですが、わたしの中でとても違和感がありました。
どうして、落ち着きがない子ども=どうにかしなければいけないもの
みたいになるのだろうか?と。
—–
あくまでも、個人的な意見です。
そして、
そういう一般論があるのもわかるし、また社会的に見て
子どもが落ち着かないと困ったり、悩んだりする親がいることも事実です。
ですから、
そのものを否定するつもりはないのだけど、
わたしの中ではとても大きいつっかかりみたいなのが残りました。
『誰かの都合で作られた
幸福論、成功論、良きものの定義』
なんて、万人ウケしない。
そんなの、
人を本当に幸せにするのだろうか?と思うのです。
—
人の心を救うのは、
誰かや何か、つまり他力をきっかけにして目覚めた自分の心だけ。
自分を幸せにするのもまた、
誰かや一般論が気づかせてくれる
『自分なりの幸せのカタチ』です。
わたしたちは、
他力とともに、自分を見つけていく。
だからこそ、
他人が語る成功論も、
幸せの定義も、
方法論も、
それらはわたしたちが自分の中に答えを見つけるために必要なヒントとして存在します。
それ自体が悪いわけでは、ないと思ってる。
ただ、
誰かの都合で作られた幸せの形は
直接的には、その人しか幸せにしない。
わたしがこのブログで語ることも、
わたしが味わっている幸せのカタチも、
わたしだけにしか、通用しない。
たぶん、先ほどの記事タイトルに
違和感を感じたのは、
子どもに落ち着いて欲しいのは
親の都合だからだろ、と思ったからかもしれません。
でも、
都合が潰す個性というものがあります。
わたしたちの抱くコンプレックスなんかも、
誰かやどこかの都合に合わせて作られた良いもののカタチに
自分の個性がそぐわなくて、
それで、生まれてしまった
自分自身を生きることへのためらいによるもの。
罪悪感も、
無価値観も、
すべて、そうなんです。
でも、わたしたちは
コンプレックスから、
自分らしく生きることを再び教えてもらえます。
自分のあるがままを
叫び続けているのが、コンプレックスであり、
その人ならではの生きづらさ。
だから、
排除するものではなく、
むしろ歓迎すべきものなのです。
—
わたしは昔から、
こういう人間でした。
こういう、と書くと変ですが(笑
あまり子供っぽくない子供でした。
それがもし、
先ほどの『落ち着きがない』の部分と同じだったら?
わたしのありのままの姿は、
誰かの都合によって罪と化し、
わたしはわたしを、排除したいと思ったのかもしれません。
—
この話にオチはありません。
何が良くて悪いのかを判断したいわけではないから、
誰かが悪者なのではありません。
それは、他のことでもおなじ。
人生に勝者も敗者もいらない。
少なくとも、わたしには必要ない。
勝者と敗者は、
あるがままを生きることへの恐れからのみ、
生まれるものだと思うのです。