罪悪感を刺激されると人は怒る、
『が・・・』
と書きました。
続き、気になりますか?
気になりますよね。笑
では、その続きを解説していきましょう。
まず、罪悪感を無意識に刺激されると
人は防御体制に入ります。
そして、目の前の人を敵に仕立て上げ
防衛する姿勢に回るので
相手の一字一句、または行為が全て
問題あり、のように見えてきます。
「あの人が絶対に悪い!」
この反応を、自然に生み出してしまうのです。
—
怒り、になることがない時もありますが、
怒りが湧いてくる時というのは
自分の中にある何かしらの罪悪感を刺激されている時です。
だから目の前の人を攻めちゃう。
・どうして見せてくるの?
・どうして触れてくるの?
放っておいてよ!!!
そうやって、全細胞を使って
目の前の人を悪者に仕立て上げたくなってしまいます。
—
罪悪感、というのは過去の後悔ということもできます。
もっと言えば、罪悪感というのは
掘り下げていくとそこに
「自分が諦めたこと」が
見えてきます。
何を諦めたのでしょうか。
誰を笑顔にするのを諦めたのでしょうか。
何をわかってもらうのを諦めたのでしょうか。
何を言うのを遠慮し、諦めたのでしょうか。
・・・それは自分では
パッとわからないことが多いです。
でも一つだけ言えること。
それは
『自分の幸せを自分が勝手に諦めた』
また別の表現を言うと、
『自分のしたかったことを諦めた』
さらに別の角度から言えば
『自分の人生を遠慮した』
ということにもなるし、
結局は
『自分を大切にしなかった』
ことに対する後悔。
それが罪悪感、つまり
「罪=自分を大切にしなかった」気持ちが残ってしまうわけです。
—
例えばわたしはずっと祖父に罪悪感がありました。
わたしは心のどこかで
彼の望む子になれなかった、
彼の望むようになれなかった、
彼が笑顔になるようなことができなかったし、
彼が求めるような人間ではなかった・・・と。
そういう罪悪感があったように思います。
でも、蓋を開けてみると、
結局それは
「わたしが、あるがままの自分を押し殺して
彼に愛される人間になろうとしていた」だけであって、
本当に祖父がそれを求めていたわけではなかったんですね。
わたしは勝手に、
わたしの妄想で、
わたしの想像で、
相手に確認もせず、
相手にぶつかってコミュニケーションもせず、
一人で結論を出して、
自分で、自分を曲げた。
これが大きな後悔なのです。
あの時、わたしが、わたしのままでいればよかった。
望まれないことをしてもよかった。
怒られるようなことをしてもよかった。
愛されないようなことをしてもよかった。
それがわたしなのだから、と。
わたしはそれよりも「別の」ものを求めたのです。
そして自分に課したのです。
これが、罪悪感の正体。
だからこそ、
『自分の幸せを自分が勝手に諦めた』
また別の表現を言うと、
『自分のしたかったことを諦めた』
さらに別の角度から言えば
『自分の人生を遠慮した』
ということにもなるし、
結局は
『自分を大切にしなかった』
ことに対する後悔。
それが罪悪感、つまり
「罪=自分を大切にしなかった」気持ちの残骸、ということなのです。
—
そこに気づけると、
自分の怒りも、人の怒りも、その中身が見えてきます。
自分が怒りと一緒になってしまった時も、
忘れた自分、
置いてきた自分、
なかったことにした自分、
そして「諦めた幸せ」を
もう一度、獲得するチャンス。
それが罪悪感のくれるギフトです。
逆もしかりで、
相手が怒りを示してきたとしても
それは相手のチャンス。
わたしたちが気にしすぎて
それを沈めることで相手のチャンスを奪うことはできません。
だもんで、ちゃんと怒られよう。(そしてそれで自分を責めない)
その姿勢も大切だ、ということです。
—
罪悪感を持っていても、
感じていても、ぜんぜん、大丈夫だよ。
その秘密が、ちゃんと潜在意識の仕組みに
あるんですね。
いいですね、罪悪感も。
そうやって思えるようになると
刺激されて怒りが湧いてくる自分も、
刺激されて怒りが湧いてきた他人も、
もっとウェルカムできそうな、気がしますね。
—
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両親に対する密かな罪悪感とおさらばする講義をします。
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