「どうしますか?
もうやめますか?それともやり続けますか?
どちらでもいいですよ?」
「やりません!やめます!」
「・・・・( ̄_ ̄ i)
だめね、それ、はい、やり直し!」
…というようなことが、
たまにあります(笑)
—
どんな状況か、といえば例えばですが
・何かを手放したい時
それをいろいろ見ていった結果
手放すか、手放さないか、選択してもらうとき。
「もう嫌です。だから手放します!」となっていると、
わたしはそこでストップさせることがあります。
『まだまだ見とらん部分がある!!カッ(`・ω・´)』
と言って(笑)
引き戻します。
やめさせません。
引き続き内面を見ていきます。
味わってもらいます。
たくさんしんどい思いもするでしょうが、
しっかりと解放するために
自分の今まで抑圧したものをすべて、
一度自分の中に通します。
「嫌だから手放す」
「嫌だからやめる」
「もうこりごりだからやめる」
「もう見たくないからやめる」
「もう経験したくないからやめる」
・・・いいでしょうか、
それ
『選択じゃなくて、拒絶だぜ!!!』
ってことなんです。
——-
Aというおまんじゅうと、
Bというおまんじゅうがあったとしましょう。
あなたはAというおまんじゅうしか
食べたことがありませんでした。
そのおまんじゅうがとてつもなくまずかったので、
Bを食べる前に「わたしはBのおまんじゅうしか食べない!」と
決めてしまいました。
その後、一生Aというおまんじゅうを避けて通ることになったのです。
・・・って、食うてから決めろ!!!
(  ̄っ ̄)
また別の時には
Aというおまんじゅう、Bというおまんじゅうの両方があって
Aの方がおいしかったので
Bのおまんじゅうはまずいということに、
しておきました。
そのため、Aというおまんじゅうしか食べることができない人になってしまいました。
ちゃんちゃん♪
・・・じゃなくて!食うてから決めろ!!!
( ̄∩ ̄#
と。
そういうわけです。
—
選択しているようで
ただの拒絶になっていることがあります。
経験したこともないのに
それが最初からだめだと決めつけて、
もしくは「絶対こうであることがすばらしい」と決めつけてしまい、
選択しているつもりが
ただの「残り物を拾っているだけ」になっています。
例えば、
手放したことがないひとは
「手放したら幸せになれるはず」と言って聞きません。
「そうなったことがない人」だけが
「絶対にそうなったらこうなるに違いないから」といって
妄信します。
選択ではなく拒絶なので
何か見えないお化けにでも追いかけられているように。
何かから逃げるように逃げるように・・・
正解、また正解を渡り歩いていこうとします。
そうやって、何でもかんでも
ちょっと不幸なことがあったり問題があったり、
ただの疲れによるストレスやイライラかもしれないのに
自分に問題があると思い込んでしまって
何かそれっぽい過去の記憶をひっぱりだし
「手放したい」という。
でも、
「手放した先」が本当においしい未来なのか?
知っての選択と、
知らずの選択とでは話が違います。
「手放してないのだから、わからないじゃん!」
と思われるかもしれませんが、
『答えなどなく
正解などなく
絶対などない
誰にも何にも保証されていない状態で
おのれは何を選ぶか』
これこそが、「選択する」ということであります。
—
何かを選んでいるようで、
何かを排除しているだけのこと、ありませんか?
まっさらな気持ちで向き合った時に、
ストンと、どうしたいか。
ただそれだけなんです。
ただそれだけが、
決断に必要だということなんです。