誰かの役にたつことをするだけが、
人との関係性を保つものではありません。
誰かの役にたつことができてはじめて、
愛されるのでもありません。
相手に「何かをしてもらう」ことも一つの才能。
誰かに「何かをしてもらう」ことも、一つの関わり方。
どこで間違えたのだろう?
何を勘違いして、
何を勝手に自分のせいにして
「わざわざ」やらなくていいことを探して
「わざわざ」自分に課題を課して、
そうやって誰かと繋がっていようとする。
そうやって、みんな不器用に生きているんですよね。
?
昨日は、虹の和のイベントでした。
今回のテーマは癒しと笑い。
たくさん笑って、たくさんのブース体験があって
癒しの時間もある、という1日。
わたしも、とあるカードを引いてもらいました。
(写真は残っていないのですが。。。)
その時に言われたこと。
「赤ちゃんに、なりましょう」と。
・・・?
あかちゃんに・・・・。
つまり、
「何もしなくても、役にたつことをしなくても、
そのままの存在でいることで、愛されている」
ということらしいのです。
あぁ、たしかに最近は
がんばりすぎてたなぁ、と思い。
ふと、冒頭に書いたようなことを思ったのです。
??????
人は一人では生きていけないし、
誰かの承認や、誰かに求められることによって
自分の価値や存在そのものを感じようとします。
一人では生きていけない、
というより
生きて行く意味は、一人では見つからない、
ということなのでしょう。
わたしは常々そう思っているし、
自分の生きている存在感を
他者の存在によって、味わっているというのは
やめられないこと。
それをないものともしないし、
そんな自分を弱いものとも思いません。
でも、
だからといって、
わたしがわたしであることだけで意味がある、
と。
そうやって教えてくれる人たちがそばにいるってことを
何よりも忘れたくないなと、思うのです。
小さい頃は、
お父さんやお母さんを喜ばせたくて
笑っていて欲しくて
できればずっと上機嫌でいてほしくて
だから
かまってもらって笑わせようとしたり、
時には悪さをして気をひこうとしたり、
いい成績をとって自分のことを喜んでほしいとおもったり、
役にたつこと、役に立てるような才能を身につけて
相手の負担をできるだけ軽くしようとしたり。
すべては愛からスタートしたはずなのに、
いつのまにかそれを求められることも、
それを求めることも許されなくなって、
人はだんだん果たせなかった愛の形を歪めて恨みに変えてしまうのかもしれません。
?
愛されなかったのではなく
愛せなかっただけだし、
愛されたかったわけではなく、
愛せなかったことに後悔を抱く。
でもそこから本当に教えてもらうことは
「愛そうとしなくても、存在だけで、大丈夫」
ということだったり、
「愛することを別の形に変えて相手のためになろうとしなくても
存在しているだけで相手は喜んだり笑顔になったりもするんだよ」
ってことだったり。
どうやったら愛されるか、
どうやったら愛せるか、ではなく
どうやったら
「ちょうどよく生きるか」を
教えてくれるのかもしれません。
?
わざわざ、しなくていい
わざわざ、笑わせたり
わざわざ、楽しませたり
わざわざ、喜ばせたり
わざわざ、役に立たなくても、
一緒に笑い、
一緒に喜び、
一緒になって役たつことを分担し合う。
そんな感じでいいんだろうな、と思いました。
???
虹の和イベントではありませんが、
11月21日に名古屋でトークライブをします。
講師は、
易経の先生
古神道の先生
タロットの先生
潜在意識の先生(わたし)
・・・みたいな感じで、各界のどマニアックな人たちが集っている、
ちょっと変わったトークライブ。
詳細はまたアップしますね。
ぜひ、遊びに来てください!