普通に過ごしていても、
忘れているだけでわたしたちには
何かの刺激によってそれがドバッと出てくることもあれば、ゆっくりゆっくり自然と出てくることもある。
いろいろなネガティブな想いも
後悔も、罪悪感も、、、
そういうのは普通に生きていれば当たり前に眠っているし、かといってそれを全て無くす必要など、ありません。
「ネガティブなものが潜在意識にあるから」
だから、それが現実化するんだよ、、、
と言われることもありますが、
これは適切な表現ではない、
まちがってもないけど、
ちょっと(いや、ぜんぜん)
ちがう!!って感じ。
なぜなら、
わたしたちは、どんな想いや感情さえも
それを変えることができる自由な意思を持っているからです。
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例えば、誰かを恨んでいたとしましょう。
そこで、二つのパターンにわけて考えてみます。
1、恨んでいることを否定したまま恨み続ける場合
2、恨んでいることそのものに感謝しながら恨み続ける場合
大きく分けてこのふたつ。
「恨む」という行為は同じであれ、その行為がもたらす結果は全く違うものとなります。
「怒り」で考えてみましょうか。
1、怒っていることを否定したまま怒り続ける場合
2、怒っていることに感謝しながら怒り続ける場合
この二つでも
「怒り」を抱えている点では同じことかもしれませんが、それによってもたらされる結果はずいぶんとちがってきます。
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ちなみに、私の中には
ずっと忘れられない「怒り」があります。
その対象に対して思い出がよみがえってくると、
「怒り」の感情が湧き、そしてその怒りによって
相手のことがとにかく憎たらしくなります(笑
今から家燃やしたろか
とか思うくらいです。笑
でも。
わたしは「怒っていること」に、感謝もしているのです。
なぜなら、その対象に対して怒りを覚えるほど、
・そのとき真剣だったわたし
がいるし、
・そのとき、深い愛情も同時に持っていた
こともわかるし、
そして、その怒りによって
「今」のわたしの幸せも、際立って感じられるから、
(ここ大事!)
でもあるのです。
だから、
怒りは怒りのまま、ほうっておく。
『いや~家燃やしたいとか怒ってられる今って平和やわ~』と
(ん?)
怒りが残っていること、
恨みが残っていること、
そもそもそれを「問題視」しない。
そういうことなのです。
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話は変わりますが、
オーガニックや有機野菜、というものは
とてもピュアですよね。
形がいびつだったり。
貴重なため値段が高かったり。
腐り易かったり。
いろいろと欠点はあるわけです。
でも、それこそが「オーガニック」
つまり、「純粋」な状態。
わたしたち人間だってそう。
オーガニックなのです。
欠点があって、
足りないところがあって、
できないことがあって、
ネガティブなものがあって
それでこそ、有機的。
だから
自分の潜在意識にある秘められたネガティブ(だと思われる)
全ての感情、思い出、気持ち、過去
ぜんぶぜーんぶ、
いびつな形をしたオーガニック野菜の欠点の一部だと思ってみましょう。
そうすれば、
別にどんなものを持っていたって
どうってことない、ということがわかります。
たしか昔、ある講座のときに
みんなで「誰はどんな野菜か」という話を言い合いっこしてて、
◎◎さんは大根だね~
◎◎くんはかぼちゃっぽいね~
なんて話をしていたとき、
「はたゆかさんは~」という話になって
『土がついた有機野菜!』
ドーン!
と言われたことがあります。
種類じゃなくて、有機野菜ってカテゴリーかよ!
と思いましたが。笑
ええ、普通に褒め言葉として
いただいておきました。
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不足そのものを含めてその形である、
と受け入れたとき。
はじめてそのいびつな形の良さが見えます。
それを必要とする人の気持ちがわかります。
そのものが愛らしくなるのです。
わたしたちは
ボコボコの
人それぞれ全く違った
その純粋な様を、
わたしたちのネガティブ(だと捉えるすべて)は
象徴してくれているのです。
かわいいですよね~とっても。
ボコボコしているんですもの。
それをあるがままの自分だ、
というのではないでしょうか。
??
かつて、
完璧な形ではないからといって捨てた自分がいます。
それは、農薬などでつくられた人工的な
「きれいな野菜」を目指し、
自分のぼこぼこな形をなかったことにした、ということ。
それを取り戻し、
自分の欠点そのものを含んだ「形全体」を受け入れ、かつ、その上で調理をする。
ほんとうの意味であるがままを愛せたとき、
わたしたちはもっと進化したくなります。
その進化、
そのものが「野菜の調理」なわけで。
「自分を変えようとすること」を
自分の欠点を無視しようとすることと、
履き違えないことが、とても大切なんです。
ビバ!
有機野菜!