あなたはいきなりりんごをもらった。
しかし、そのりんごは、あなたに食べてもらうものなのか、
誰かに食べてもらうものなのか、
はたまた、そのまま持っておいた方がいいものなのか
甘いのか、
すっぱいのか、
皮ごとの方がいいのか
皮をむいた方がいいのか
・・・
何も知らされることなく、ただ突然りんごをもらったとしよう。
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また別の日はみかんをもらった。
しかし、みかんもまたこれは何のために与えられたのか
何のために使うのか
自分が食べていいのか
人にあげるものなのか
鏡餅の上においておくものなのか
こたつで食べるものなのか(笑
全然わからず、とつぜんぽんっと、みかんが与えられた。
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よく、
「運命って決められていますか?」
と聞かれるときにこの話をしています。
りんごやみかんというものは
その都度タイミングよく、与えられるし、
何が与えられるか、っていうのは決まっているとしましょう。
(そうであるかどうかは置いといて、
そうだったと仮定します。)
自分の運命や使命、というものがこのように決まっているとしても、
その後に立ちはだかるのは
「自由」という名の神様からの絶大なる愛の表現です。
りんご、ぽーい。
みかん、ぽーい。
明日は、バナナね。
そうやって、決まっていることは確かにあるのかもしれない。
でも、
受け取ったその人が、その後どのようにするのか?は
何も命令がない。
正解もない。
神様は、信じてやまないのである。
「自由こそが愛だ」と。
だから、りんごをどうしようと
みかんをどうしようと、
自由に決めていいよ、
安心してて、次バナナ投げるから(安心できるか?)
みたいな感じなんだと思うのです。
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自由こそが愛だと信じてやまない神様が
不自由もまた作り出して上の方で笑っとるんじゃろうなぁとか考えると、
小さな悩みもまた、ふっとぶよ。
自由を中心に、不自由が生まれ。
人はその不自由の中を泳いで、自 由へと還るのですなぁ。
(だから、不自由の中で停滞しているとしんどいのよね。)