わたしは、
自然体で生きることができるようになって、
そして、自分を大切にすればするほどに、
あることがわかり、
またそれはちょっとした衝撃的なことでもありました。
自分を大切にすること、
自分が常に満たされていることを
重要視すればするほど、
そしてそれが習慣になればなるほどわかったこと・・・
それは、自分のキャパシティーのなさ、でした。
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キャパシティーがない、と聞くと
なんだかネガティブなイメージがわくかもしれませんが、
その実態はいたって普通でした。
・集中力なんてそこまで続かない。
・ちゃんと寝てちゃんと食べないと身体は動かない。
・やりたいことなんて、ちょびちょびしかできない。
・同時に達成できることなんて限界がある。
・一人でできることは限られている。
・大切なことほどひとつひとつ、現れる。
全部、全部、
がんばっていたときのわたしが
認めないようにしていたことたちでした。
もっとできると思っていたし、
もっとやれると思っていたし、
もっとやらなきゃ、と思っていた。
わたしはなんとかできる。
わたしなら、できる。
まだ、大丈夫。
まだ、やれる。
こんなはずじゃない、
こんなんじゃない。
・・・いいや、
「こんなはず」だったのです。
想像以上に、
「こんなはず」でした。
どうあがいたって、
自分の個人的な才能にも、能力にも、体力にも限界があり、
何事にもタイミングやその時々の順番というのがあり。
それは、自分の個人的な意思ではどうにもならないものだ、と
あるとき降参したのです。
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自分の限界に降参すること。
それはつまり、
自分自身を全信頼することでもあり、
そして、本当の意味で
今という時と一緒になって生きることだ、と
そう強く感じるようになったのは
いろいろなことを通して
”急いだ方がいいこと”なんて、一つもないんだってことが
身にしみてわかったからなのかもしれません。
全てをタイミングで片付けようとしているわけではありませんが、
限界があることやキャパシティーがあることを
まるまる受け入れたところから、
今の自分とのお付き合いがはじまるのだと、思うのです。
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さらに面白かったのは、
本当にわたしがやりたいと思っていたこと、
求めていたこと、
幸せだと思っていたことは、
本当の本当のことではなく、
「こうするしかなかった」的な選択であったことがわかったのです
それを例えるなら、
”いけにえ意識”
例えば、誰かを喜ばせることが自分の喜びだとか、
誰かを楽しませたいというのが自分の喜びだとか。
以前、記事にも書いた”犠牲意識”ですね。
わたしの喜びは、
誰かの喜びである。
(だから、誰かのために自分を捧げることは、
わたしの喜びでもある。)
そうやって信じて疑いもしなかったのです。
しかし、すこしずつ本当の自分と重なるようになればなるほど、
それは、自分が「こうするしかない」として
勝手に設定した思い込みだった、ということもわかるのです。
つまり、自分への不毛感からくる「諦め」ですね。
ただ存在しているだけの自分を許さない、
自分への罪意識と罰。
ただいるだけでは許されないから、
何かを差し出して、
自分を”いけにえ”にして、
許してもらおうと、
つながってもらおうと、する。
その思い込みを手放すことは
非常に恐ろしいことです。
なぜなら、今まで自分が信じて疑わなかった
幸せや喜びの定義が崩れ去り、
何を基準に、生きればいいのか
そして誰の笑顔を元にすればいいのか、
わからなくなってしまうのです。
自分の存在があやふやになってしまう。
もともと、そこにあるものなのにね。
いらないものくっつけすぎたから、
わからなくなっていただけなのにね。
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いけにえ意識、というのは
意識しない限りすんなりと私たちの中に居座り、
あたかも自分が求めているように、
自分自身を捧げようとしてしまいます。
『わたしを使って、幸せになってください』
そう言う自分は、
なーんにも満たされていないのに、
誤魔化そうとする。
それによって得たニセモノの快感や喜びは
麻薬のようなもの。
何度も味わえば味わうほど、
いけにえ意識から飛び出すことができなくなってしまうのです。
むかしのわたし、
ほんとうにそうだったと、今振り返って思います。
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今はただ、
ただただ普通に生きることが
自分にとって一番大切だと思っています。
幸せでも不幸からの回避でも
喜びでも快感でもなく、
ただただ普通に呼吸をし、
歩き、ご飯を食べ、寝て、
テレビを見たり、仕事をする、
その普通を過ごすことが、自分を感じる瞬間でもあるのです。
特別な何かをわざわざやろうとしない。
それこそが、特別な自分が
すでに歩んでいる特別な人生を感じる秘訣なのではないでしょうか。
案外、わたしたちって
キャパシティー、狭い。笑
人間が1日にできることって、
意外と少ない。
1年って、思っている以上に短く、
そして何かを成し遂げるにはあまりにも儚い。
しかし、それでよい。
それがよい。
何でもかんでもすぐにできる必要はないし、
何でもかんでも一度にわかる必要はない。
時が刻まれることの安心感。
焦ったり急いだりして形にする必要が有るものなんて、ない
それこそが生命の歩み。
今の自分の普通を生きる。
そうすることで、
深く強く同時に存在してる無限の可能性にも
触れることができるとおもうのです。