すごい人、じゃなくて
嬉しい人、でいたいなと思っています。
何かができてすごい
何かがわかっていてすごい
何かが長けていてすごい
一度自分をそういう人間にしてしまうと
その”すごい”からはみ出ることが怖くなって
いつのまにか
すごくない自分をさらけ出すことができなくなってしまう。
でも、
嬉しい人でいることは
わたしにとっては大切なことです。
嬉しい人でいる、というのは
”あなたがいてくれて嬉しい”と言われたい、ということでもあるし
”あなたがいてくれて嬉しい”と言う人でいたい、ということでもあります。
その欲に、忠実でいたい。
これはとても簡単そうで難しいことだなって
最近感じていました。
忙しさにまみれてしまうと、
気づかぬうちに自分の中に生まれる
小さな”うれしい”を取りこぼしてしまうし、
無意識のうちにすごい人すごいこと
すごい自分でいようとすればするほど、
他者が自分に向けてくれている
”うれしいです”の気持ちを見逃して受け取れない。
だからわたしは、
すごいひとより
うれしい(のギブアンドテイク)がある人でいたい。
そう思うのです。
(3年前くらいの写真)
っていうのもね、最近ある人が
周りから批判されているのに対してショックを受けていた時に
”わたしはそんな人じゃないのに・・・”
と嘆いているのを見て思ったんです。
他者が自分をどんな人間かと思うのは
コントロールすることができません。
勘違いされたくないと思うのは当然ですが、
しかしながらに、勘違いされたくないと思えば思うほど
身構えてしまうものです。
じゃあ、勘違いされたり
誤解されたり、
勝手な妄想で批判されたりするとき
必ずしも相手が悪いのか?
と言われればそうでもない。
なぜなら基本的に
人と人との間に勘違いや誤解が生まれる時、
そこには絶対的な悪人、罪人や被害者はいないからなのです。
Aさんにとってわたしという人間は
冷たくて頭が固くて、とっつきにくい人。
Bさんにとってわたしは
温かくてたのしくて面白い人。
”わたし”という人間のどこを切り取るのかは他人が決めることで、
人が自分を切り取った要素というのは
自分の一部として持っているものなのです。
(受け入れたくない!という人もいるけれど)
わたしは、他者から誤解されたとしても平気になりました。
あの人はこうだよね
あの人はこういう人だよね
そう言われることも、よしとしました。
なぜなら、
”ほんとうのわたし”はわたしが決めることだし、
さらにいうなら、そのほんとうのわたし、というのは
自分にしか認識できないものだから
わかってもらうほうが、無理がある。
のです。
自分がただ感じるしかできないの。
それを他者にわかってもらおうとして伝えたとしても
相手の中で生まれた”はたゆか”という人物は
あくまでも相手の中にある像だから、
相手が切り取ったイメージだから。
そして、相手が切り取ったイメージは
自分の排除した自分のときもあるから。
絶対にわたしはそんなひとではない!
なんて、頑なになる必要はありません。
そこはコントロールできないし、
する必要もない。
勘違いすることも、誤解が生まれることも
ふつうに人と人との関わりの中では
当たり前のことだと、思うのです。
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少し例え話をするなら、こんなことが以前ありました。
どこか風の噂で、わたしはとんでもなく
冷たい人間だということを聞きました。
そのときに思ったのです。
”あぁ、そうかもな”って。
しかし、一方では
わたしのことを”優しい人だ”という人もいます。
また他のところではわたしのことを
”強い人だ”という人も。
きっとうちの相方はわたしのことを
”乙女だ”と言ってくれるに違いないでしょう(希望込w)
ごく身近な人たちには
さざえさんちのカツオくんと、クレヨンしんちゃんと
アルプスのハイジを足した感じだと、
言われています。
幼い系かい。笑
そう、
見る人触れる人によって、
わたしの様々な側面が
相手の中に伝わります。
そして、わたしの様々な側面は
相手の中でさらに色付けされ、
違う人物となります。
もう、どうしようもありません。
こんな感じで死にそうになりながら仕事しているときもあれば
こんな風に爽やかなジドリができる余裕あるときも
(同一人物に見えんな・・・笑)
自分では違う!
そういう人間じゃないのに!
と思っていたとしても
自分の背面を見ることはできないように、
すべてを把握することができているわけではない。
それならば、
うん・・・確かにそういうわたしもいるかもな、
と思うことができます。
そして、そのほうが断然、きもちよい。
(快便的なきもち良さ)
ゆえに、
他者からわたしがどういう人間なのか
どう思われているのか
逆に興味があるときもあります。
しかしそれは、自分を決める判断材料にはなりません。
自分の価値はそこでは測りません。
他者が描いた自分像で自分のことを評価しないからこそ、
他者の描く自分をコントロールすることもしないのです。
自分はそういう風に見られることもあり、
そういう風な側面もあるかもしれないなぁ。
へーおもしろい・・・
そっちの方向に捉えることも、できるということ。
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なにやらいろいろな話題が組み合わさった
バイキングのような記事になりましたが(笑)
まとめるとつまり、
”勘違いさせとけ”
ってことですかね。笑
そして、人が自分をどういう人間だと思うのかに興味を持つということは、
同時に自分自身で感じる”わたしという存在”にも意識を向けることになります。
他者からどう見られているのかは
ひとそれぞれ。自由。そこに抵抗する必要はない。
なぜならわたしは、
すごいひと、じゃなくて
うれしいひとで、いたいから。
あなたはどんなひとで、いたいですか?