数ヶ月に一度は、もだえる日がある。
何にもだえるかというと、
常に与えられている”自由”にもだえる。
自分の人生が成り立っている土台に、もだえる。
もっと簡単に言うと、
”生かされていること”にもだえる。
”もだえる”と、わたしはどうしようもない感覚になる。
それはまるで水をふくんだスポンジを、
ぎゅーっとしぼって、
パッと手を離した時に
ふわっとひろがる、その手前のように。
ぎゅーってぎゅーってぎゅーってなって、
うげーうげーうげーって
生命に絶望している(笑)
※そういうときは、
はたからみると完全にグロッキーで廃人なのだが、
生きていることにもだえている、と言ってしまうと
違う意味になってしまうことがあるから
特に言ったりはしてこなかったので、今回が初公開(?)
今日は少し、その”もだえ”についてシェアしたいとおもう。
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どんな状況であってもわたしたちは常に
大きな自由という名の愛に包まれていて、
それに従うことも自由であり、
さらにそれに反抗することも自由であり、
とにかくどうであることも自由である、という・・・
思考じゃ計り知れない自由がそこにはある。
だれでいてもいい自由。
なにをしてもいい自由。
かんがえてもいい自由。
かんがえなくてもいい自由。
好かれる自由。
嫌われる自由。
好く自由。
嫌う自由。
ほんとうは、そんなのがずっと、そこにある。
だから、この世には”正解”や”正しさ”はない。
・・・や、正確に言うなら、「ない」のではなく
「すべてが誰かにとっては正解であり正しい」わけだから、
すべてがそうであるなら、
わざわざそれが「ある」ということも必要ない。
おっそろしいほど、
この世は自由。
人間のクリエイティビティ(想像、創造の力)はすさまじい。
・・・・これが大前提。
数ヶ月に一度、ドバーンて感じて
しばし音のない世界に放り込まれる、みたいなときがある。
で、この自由のおはなし。
「そうなの?そうは思えない!」と感じるひとも
まぁまぁ、まずはただ読んでいってほしい。
どんな状況であってもわたしたちは常に
大きな自由という名の愛に包まれている。
→これ、大前提だとしよう。
愛というのは人間的な情緒的愛情のことではなく、
例えばこのようなイメージ。
ここにリンゴとバナナがあるとする。
リンゴは赤くて丸くて甘酸っぱい。
バナナは黄色くて細長くてあまぁーい。
リンゴとバナナはどちらも”くだもの”。
広いくくりで言えば”たべもの”。
もっと広いくくりで言えば、”物質”
もっと広くいけば
”素粒子のかたまり”
リンゴとバナナをもっともせまく包むのは”くだもの”
もっともひろく包むのは”素粒子のかたまり”
リンゴとバナナは、狭い視点で見ればたくさんの”違い”があるけど、
ひろい視点でみれば”いっしょだね”ってなる。
このひろい視点があることによって、
リンゴはリンゴであることができ、
バナナはバナナであることができる。
「もともとはいっしょだから、
リンゴさんはリンゴさんっぽくいてね、
わたしバナナはこんな感じでいるね」
っていうこと(笑)
もし、”素粒子のかたまり”は、
・こうでなくちゃいけない!
・こうじゃなきゃだめ!
だったら、リンゴはリンゴでいられなかったかもしれない。
バナナはすっぱくない自分を否定するかもしれない。
でも、最もひろい世界の”素粒子のかたまり”は、
いつだって自由だ。
カスタマイズし放題だ。
そこには正解がない。
だから逆に言うならば、
”存在しているものは存在しているそのままで、すでに正解”
という結論に至ってしまう。
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はーい、頭がついてこれない!というかた、
理解しようしなくて大丈夫なんでね、
このまま好き勝手書かせていただきます。笑
さささ、
わたしも含め、みなさんは自由という名の愛というベースの上で咲く花たちよ。
(いきなり誰だ)
計り知れないほどの膨大な土地。
その上で、いろいろな価値観や人格や体験をもった
ひとりひとりの人間がその自由な土地の上に
自分の家を建てる。
どんな家も、おなじものなどない。
すべて違った形、違った大きさ、違った色を持ち、
ひとりひとりを象徴するように、
それぞれが自分という名のフィールドを持っている。
そう、わたしたちは
自由という名の大地に立つ、
家という名の場、そのものなのだ、と。
その家たちの中には、いろいろな家具や雑貨や本などのコレクションがある。
どれも、そのひとの選んだもの。
わたしたちは、その家に住んで、
限定された場所から限定された窓を通して、
限られた風景しか、見ることはできない。
360度見渡したいなら、
その”わたし”という家から出なければならない。
もしくは、
スッケスケの全部が鏡の家に住む、とかね(^^)
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でも、それさえも自由。
限られた世界をみることも、自由。
もっと窓をひろくして見える世界をひろげることも自由。
家の外にでることも自由。
しばし旅にでることも自由。
モンゴルの大草原を目の前にした時も、
22歳の時にウユニ塩湖にいったときも、
同じことを思った。
地球という存在は、
常に常にそこにあって、
計り知れない自由という大前提の象徴であるな、と。
その上で何かが生まれ、
その上で何かが死んで、
その上で踊ったり歌ったり
泣いたり笑ったり、
自由の上でひとはさまざまなことをおもいおもいに描いている。
だから、
”起きること”をそのままそのまま
尊重して、存在させておくっていうのは
とても偉大な行為なのかもしれない、と思うのです。
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例えばこういうことがあったとする。
誰かに対して猛烈な怒りを感じたとする。
しかし、怒りを感じた対象が
どのようなことをするのか、というのも本来は自由。
でも、自分は許せない。
だめな人が目の前にいるのではなく、
許せない人が”今ここ”にいるだけのこと。
そうだとわかっていても、
怒りは収まらない。
感情はときに、
理解に反するように
ひろがっていって
自分のことを正当化し、誰かに自分のものさしを押し付けては
とにかく敵をやっつけることばかり、考える。
その一方で、感覚は言う。
”あなたが怒ることも、
相手がそうすることも、
すべて自由です。
だから、あなたの身に起こるすべての出来事も感情も
ただただそうであることを認め、
そうであることを、そうであるがままにしておいて
いいのですよ”
と。
感覚が、いうのです。
感情は怒り狂っているわけですよ、でも感覚が
女神のようなやさしさでいうのですよ。
”それでよい”と。
怒るあなたもよい。
あなたを怒らせたこともよい。
怒らせたことをした人もよい。
そういうことが起きたこともよい。
理解しているのに怒りが収まらないこともよい。
矛盾していてよい。
わからなくてよい。
何がよいのかはないから、
とにかく今ここでおきていること、
すべてあるがままに、それでよいのだよ~。
と。
た ま に は
ダ メ だ と 言 っ て く れ
も だ え る !!
と、ドMなわたしがそう思うわけです。笑
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別に誰かの役に立たせようと思って書いたわけではないのだけど、
このような感覚になる人も多いのではないかなーっておもって
シェアしましたん。
あるがままでよいって
ほんとうにそうなんだけど、
たまにはさー
決めてほしいよーって思うときも、あるよね
だから人は、どこかで人に決めてほしいと思っているし
拘束されていたいと思うし
不自由でいたい、とおもう
だれかのせいにしたいし、
だれかに決めてほしいし、
目に見えないものとか
わからないものに委ねたいと、
おもう
それが、わたしたち。
それが、わたしたちの
あるがまま。