昨日、フェイスブックにこのような投稿をしました。
存在そのものはメッセージを放っている。
常になにか感覚的なものが発生し
受け取り、そして表現していくことで
存在を生きる実態感が生まれる。
食べるもの
着る服
カフェで座る席
注文する飲み物でさえ
それらさえ全て表現である。
最初は、内側のフィーリングと
外側の選択や行動、言動などが
フィットしない。
言いたいことが的確に表現できなかったり
身体の不自由さに悩み、葛藤する。
うまく描けない、うまく言えない。
誤解され、無関心さを感じ
どんどん心閉ざして、表現をやめる。
人は孤独を恐れるというが、
誤解と孤独はセットなのだ。
誤解が解けたとき、
人は孤独からも解かれる。
どうしても表現は
身体を通してゆくから、
内的感覚を表現できないもどかしさと
ぴったりな表現をしたいという本質的な欲求の狭間で
人々は自分の身体にあらわれる
様々な反応を通して、気づき、学び
習得していく。
(身体にあらわれる反応は、病気や症状だけでなく、イライラや感情、過度の緊張や浅い呼吸なども含む)
少しずつそれらの不自由さや不便さを
トレーニングしたり、駆使したりするようになることで
フィーリングとアウトプットが、ぴったり合うように、なってくる。
つまり、内的感覚=自分自身を表現できるように、なっていく。
体験を積むということは、
表現する技を増やすということ。
それは男性性の発達、成熟。
表現の大元のエネルギー、非物質的な情報は、
内的感覚として生まれる。
それは女性性の働き、成熟。
男性性が未熟であれば、女性性の放つ情報をキャッチできない、
あるいは表現が下手くそになる。
そして満たされないのだ。
選択とは表現であり
その表現が内的なフィーリングを
忠実に丁寧に美しくあらわせていればいるほど、
自分自身を生きているという感覚が強まる。
様々なところで言われている、
自分を大切に、とか
自分の声を聞こう、というのは
そうしないと内的感覚を
鮮明に感じられないから。
鮮明に感じられなければ
それを表現することもできない。
表現することができないと
満たされない。
自分とのつながりを感じないため
思考が働きすぎてしまう。
日々の選択は大小関係なく
すべてが表現なのだ。
内的感覚を感じて、
右手にかばんを持つ、となればそうするのだ。歩きかたまでもが、表現なのだ。
わたしたちはみんな、
自分の存在を表現する
最高な方法や手段
その瞬間を常に探している。
そして、孤独という名の壮大な誤解を解いていくのである。
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さて、この投稿で書いたことをもう少しだけ噛み砕いて、解説しましょう。
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