「自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を与えるのだ」
ー「愛するということ」エーリッヒ・フロム
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わたしの大好きな本の中に、
そう書いてありました。
続けて、こう書いてあります。
「これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。
そうではなくて、自分の中に息づいているものを与えるということである。
自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、
自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。」
…この言葉を聞いたとき、わたしは
全身が喜ぶのを感じました。
また、自分もそれを忘れたくないと想い
今の道を選んだこと。
誰かのレールにのることもできたけど、
今のカタチを選んだことに誇りを持ちました。
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自分の中に息づいているもの、というは
ある意味「すべてのもの」であり、
これは息づいていなくて、
これは息づいている、
という風に分けられるものではないと思っています。
例えば、
頭の中が思考でうるさかったとします。
がやがや、
ごちゃごちゃ、
あーでもない、こーでもない、と言っています。
そういう時に限って、
その思考たちは強力なパワーを持っているように感じられますが、
ほんとうに気付いて欲しいのはその「思考」ではないのです。
その奥にある、何かもっと、こう
言葉にしにくいもの。
あついもの。
感情。
感覚。
つらさ、こどく感、むりょく感。
思考の奥には、かならずそういったものが隠れています。
息づいているものとは、
その奥にある「生」もの。
鮮度が大切で、それをはやいうちに消化しないと
どんどん腐っていきます。
だからわたしは、ことばを書くのです。
絵を描くのです。
歌を歌うのです。
さもなければ、気付くといつも
「思考」で蓋をしてしまうから。
だから、なんです。
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でもね、思考ってとても大切です。
何かを考える、ということは全ての生命活動を
より向上させ拡大させる力を持ちます。
でも、
何かを「考えること」と、
「思考すること」はちょっと違う気もするのです。
わたしはよく「考え」ますが、
「思考」に重きを置くことはありません。
やはり、その奥にある「息づいているもの」に目を向けたいから、
今自分がどんな思考を持っていて、
その思考はどんな感情を隠そうとしていて、
いったい、どんな感覚に蓋をしようとしているのかな?
と、観察してみます。
だから、思考はたいせつですが、
そこには重きを置かずに、通過してその奥にある息づかいを感じ取ろうとします。
そうするとね…。
何一つ否定すべき自分などいない、ということが分かるのです。
そして、
何一つ否定すべき「今、ここ」などない、と。
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抽象的に書きました。
何かがあなたのなかでヒットするといいな、と思います。
立ち止まった時こそ、
自分の中に息づくすべてを
選り好みすることなく。
与えることの喜びを、
自分がどう味わっていくのか?と問い続けること。
すべての悩みは、これで解決する気がしています。
今日からお盆休みですね。
わたしは通常営業モードですが、
それもまた、良しとしましょう。