生きづらさを、魅力にすること。
それがやがて、
「生きがい」になる瞬間が来る、と思っています。
わたしはよく
「秦さんはどうしてそんなに文章が書けるのですか?」
と聞かれます。
ただ、わたしは確かにたくさんの文章を
苦なく書き残すことが出来るけれど、
決して文章が「うまい」わけではない、と自分では思っています。
コピーライティングも勉強したことないし、
セールスレターも勉強したことない。
確かな「読まれる文章」を研究したこともない。
ただ、ずっとやってきたことは
「自分の中で生まれたことを、素直に表現する」だけだったのです。
—
ですが、最初からそれが心地よく出来たわけではありませんでした。
わたしが文章を書き残すようになったのは
おそらく小学校4年生くらいから。
日記をつけること、思ったことをコトバにすること。
そして、感じたそのままを、
ダイレクトに表現することを、
おそらく小さい頃からずっとやっていました。
今の今まで続いていることと言えば
「書くこと」だけなのです。
それくらい、わたしにとって何かを書き残すことは
あまりにも日常的で、
あまりにも当たり前のことでした。
ただ、その動機は
「生き辛さ」からきていたのです。
自分、という存在がおぼろげな気がしていた。
どこかに「見えるカタチ」として残しておかないと
いつかすーっといなくなっても
誰も気付いてくれないのではないか、と。
わたしは、「わたし」を確認するために、
ただひたすら誰かに読まれるでもないコトバをずっと書き残していたのです。
—
今、わたしの「生きがい」となっていることは、
その昔、わたしにとっての「生き辛さ」ゆえに生まれたものでした。
だから、今はその生き辛さそのものが、
逆に生きがいとなり、
わたしを「生かし続ける」一つの理由となっているのです。
「生きづらさ」を魅力に。
そうタイトルにつけたのは、
わたしのそういった経験から感じたことです。
誰の中にも、その人なりの「生きづらさ」ってもんがあります。
それは、おそらく誰もが幼い頃から感じている
・コンプレックス
や
・やめられないクセ
あるいはわたしがコトバを書いてきたように
・ずっとやってきたこと
をヒントに辿っていくと見えてくる気がします。
ですから、私は簡単にその人の持つ「生きづらさ」を
解消することになんの興味もありませんし、
そういうことを求めて潜在意識を学ぼうとする人には
はっきりとそれは意味がないことだ、と伝えています。
自分の中にある
自分だけの苦しみ、悲しみ、
抱えきれず、かといって捨てられないような過去があるからこそ、
その人の奥行が生まれるのだとしたら。
わたしは多くの人の
「生きづらさ」が輝く瞬間を見たい、と思うのです。
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言葉にすることが上手になったのは、
それをすることが得意だったからでも、
また好きだったからでもないんだよ。
今のわたしの「生きがい」が生まれたのは、
心理学が好きだったからでも、
自分を愛せたからでも、なんでもなくって。
ただ、ただ、
わたしはわたしの感じている「生きづらさ」
から目を背けることなく、
かといって、その生きづらさと戦うこともなく、
「言葉にする」ということで、
その「生きる」ということに対する葛藤と付き合ってきただけなのです。
あなたの生きづらさ、誰かの為になります。
あなたがやめられないクセも、
変わることが出来ない性質も、
嫌いだと思う思い込みも。
姿勢を変えてみてください。
角度を変えて接してみましょう。
誰かのために、その自分の「苦しみ」を奉仕することが出来たとき。
「生きづらさ」は魅力となっていくと思います。
たまに嫌になってしまうこともあるし、
こんな仕事をしているもんだから、
自分の気付きたくなかった一面に触れることは
人よりも早くて、そして深いのだけど。
それでもなお、わたしがこうして「書くこと」をやめられないのは、
そこにかつて苦しんだ自分への敬意があり、
それを丸ごと愛しているからであり、
「生きづらさ」がカタチをかえて
「生きがい」として自分の中に存在しているから。
だから、簡単に
葛藤を解消する方法だなんて、知る必要はないんだよ。
不安にならないようにとか、
出来るだけ強くあれるようにとか、
いい人であろうとすること自体が、
自分の「生きがい」から自分を遠ざけてしまうんだ。
もっとクローズな関係を自分と過ごすなら、
違う方面で今の現実を見てみることも必要なんじゃないか、と思うのです。
ただただ「生きるのが苦痛だ」と思っていた自分に対する、
ひとつの尊敬の念を示すことは、
今の自分が感じている全てに対して心を開いていくことだと思うから。
そんなことを今日はずっと考えていました。
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