もし、望むすべてのものが今目の前にある、
という前提で生きてみるとしよう。
中にはたちまち反論の声が
思考から聞こえてくる人もいるかもしれない。
そもそもそんな前提は無理!と
反撃したくなる人もいるだろう。
でも、試しにでいいから、
騙されたと思って、わたしと潜在意識を信じてみて欲しい。
あなたの望むものはすべて、
必ず、「今、ここ」に
ぜんぶ、ある。と
その前提で生きてみた時に、
すごいことに気付く気がしませんか。
—
例えば。
お金が欲しいと言う人は、
だいたいが本当は「お金」という物質が欲しいとは思っていない。
本当に欲しいのは、
お金という物質ではないはずなのだけど
記憶のどこかで
その「欲しいもの」は「お金」
【によってでしか】
得られない、と覚えてしまった。
または、そうではないとまだ気付けずに
ほんの数%の確立が、まるで100%のように思ってしまっている。
だから、絶対なんてないこの世の中で
「お金があれば絶対に…」と信じて疑わないんだ。
—
ただ、お金が欲しい場合、ほとんどのケースで
ほんとうに欲しいものはお金を手にしても
得られないことが多い。
恋人も、仕事も、お客さんも同じ。
欲しい、と思うものは
そもそも「いらない」ものなのだ、と割り切った方が
格段に話が早いことだってあるのだ。
じゃあ、この場合ほんとうに欲しいものはなんだろう?
これは人によりけりであって、
ここで一つにしぼることは出来ない。
当の本人が気付くことが一番であり、
そして気付いたときにそれがどうして「今、ここにない」と
勘違いしてしまっているのか。
そこに意識を向けられることがとても大切なのだ。
—
お金が欲しい理由は安心だとしよう。
ということは、その人は無意識のうちに
「お金=安心」と繋げてしまっている。
で、お金=安心という繋がりは
確実にどこかの記憶にしかすぎず、
それは真実でもなければ確実性のあるものでもない。
ようするに
「勝手に、そう思っているだけ」のケースがほとんどだ。
この場合、とにかくこの
お金=安心
のリンクが切れた(誤解が解けた)としても、
次にやってくるのがこうである。
安心=自分にはない
ここも、きっとどこかの記憶により
勝手にリンクさせてしまっている
「超個人的な勘違い」
である。
そもそも、ここに気付けないといつまでも
何かが自分には足りない気がしてならないんだろう。
そういうのは、私にもよくあったことだから
気持ちはよくわかる。
—
でもね。
大切なのは何かを得ることよりも
欲しいものを手に入れるよりも
「既にそれは自分にあった」と知ることの感動なんじゃないか、と思うの。
逆にいえば、
「既にある」ということを「受け入れる」ことが出来たとき。
「欲しいものを手に入れる」
という結果そのものが味気ないものになり
あるかないか、さえも大して興味がなくなってしまうかもしれない。
—
ありとあらゆる今の自分が見えてる現実を
ブラッシュアップのつもりで冷静に観察してみる。
そうすると、頭で
もっとこれが、
もっとあれが、
もっとあの人が
もっとわたしが…
と平気な顔してこっちに向かってしゃべってくる自分がいることに気付く。
で、そんな時に問いかけてみるんだ。
「そんなことを言うわたしは、
わたしのことを幸せにするのだろうか?」と。
わたしたちは、
自分を幸せにする自分とそうじゃない自分と
両方を併せ持って生きている。
だから、自分の意志でその「どちらの自分」の言うことを聞くのか?
を決めないといけないと思うんだ。
自分に対して目の前の現実から足りないものを探す「じぶん」
自分に対して、すべて今ここに揃っている、という前提で
ありのままの自分を受け入れられている「じぶん」
どっちが心地よいだろうか。
その答えは既に出ているはずだ。
—
わたしが最初のほうで書いた、
【もし、望むすべてのものが今目の前にある、
という前提で生きてみるとしよう。】
という問いかけは、
自分を愛することができている「じぶん」を
呼び覚ます呪文でもあると思ってもらえたらいい。
時たま忘れそうになるけど、
どちらに主導権を渡すのか。
それは自分で意図的に決めることが出来るんだ。
ほんとうは、全部あるんだよね。
確かに未来からしたら、今「ない」ものもあるのだけど。
今この瞬間に、そして今の自分を楽しむための要素は
確実に用意されている。
つべこべ言わないで、
まんまるになっちゃえよ。
—
ってことで、
小説を読んでいたためか、
どうしてもこの口調になってしまうのでした。
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