たった6日間のニューヨークの旅も
もう帰路につく頃になりました。
寂しいような、寂しくないような…。
一見なんともない日常だった6日間ですが、
わたしにとって何やらまた大きく変わりそうな予感がする旅でもありました。
いろいろな人との出会い。
いろいろな景色の重なり。
すべては、そうであるように進んでいくことばかりで
ただ、その合間合間に出会う出来事に対するわたしたちの
「解釈」が、
受け入れられないという歪みの現実をつくるんですよね。
今回の旅は特に、そういうことを感じていました。
—
例えば、わたしはよくセミナーでこう言い切ります。
「良い現実も悪い現実も、
良いことも悪いことも、
また、良い性格も悪い性格も本当は何一つない」
と。
これが正しい、と思っていても
それは確かに「その角度」からは正しくて。
でも、それは正しい、と思っている角度とは違う
別の角度から見てみると、
「正しい、、、、かも」に変わる。
そして、また別の角度からみてみると
「それは正しくない」という解釈に変わるし、
現実はさまざまに色を変え形を変え、
どんどん変化していく。
それはある種の自由であって
わたしたち人間もまた然りで。
逆らうことなくその自由さに身を委ねることが出来れば
そうそう問題さえも起きないのだけど。
ついつい人は勘違いをするんですよね。
「正しさの中に安心がある」と。
—
でも、正しさの中に安心があると思い込んでしまえば
「正しさ、というものが角度を変えると変わってしまう」
という事実はまた不安定なものになります。
安心と不安定は一致しない、
と普通思い込んでしまうので
一度「正しさの中にある安心感」というものに身を委ねてしまうと
たちまち自分が変化したり、他人が変化したり、
現実が変化したりすることを恐れるのです。
—
この「安心感を持つ正しさ」というものは
私たちの誰もが潜在的に持っています。
別の良い方をすれば、
それは「個人がそれぞれに持つ超独断と偏見にまみれた解釈」のカタマリであって、
本来は何も正しいわけでも間違っているわけでもないんです。
いっちゃえば、それは
「ただの記憶」です。
わたしたちは、正しさを記録して生きていくクセが
どうしてもついてきてしまったんですよね。
—
ただ、どこかの瞬間で
この「正しさの中の安心感」に依存することが
不可能になってきます。
なぜなら、
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