「夢中」
夢中になる、という言葉を良く使う。
わたしがそもそも夢中、という状態がとても好きだからだ。
夢中になっているときは
その状態そのものが夢中であるとは気付かないから
大抵はその後の状態を振り返って
あれが夢中だったな、と思うのだけど。
一生懸命とはまた違う、夢中な感覚って
なんともいえないな、と思う。
思えば、いつから夢中という感覚を知ったのだろう。
夢中という感覚を覚えたそのきっかけは
とにかくその時に与えられた状態が
何かに夢中にならざるを得ないものだったのかもしれない。
わたしが一番最初に夢中になったのは
小学校に上がる前だった。
もしかしたらその前からずっと夢中だったのかもしれないけれど、
今でも鮮明に残っている記憶がその時だ。
わたしは手探りで自分の表現できる最大限の創作を
家にあるピンク色のティッシュでやっていた。
手元に会ったのはただのティッシュとテープだけ。
それもすぁくちゃにすればもう元には戻れないような、
そんな、不自由な素材ばかりだった。
その素材たちで、ありとあらゆるものをつくった。
もはや素材の有無なんてどうでもよかったかもしれない。
とにかく色々な思い付く形を
そのティッシュとテープでつくっては壁に貼っていた。
ぞうさんやキリン、その他の動物園で
よく見るものたちを。
私は壁一面に並べた。
満面のドヤ顔で、その作品の前に立つわたしの写真が
いまでも祖母の家に飾ってある。
もしかすると、祖母達もそんなわたしの姿を
写真に収めるのに夢中だったのかもしれない。
思えば、いつも不自由な状態の中に必ず夢中があったように思う。
そもそも夢中になれている時に
自由だとか不自由だとか考えもしないのだとも考えられる。
大人になって乏しくなった想像力を、
引き立てて若返らせてくれるのが夢中のチカラだとすれば、
わたしたちは、その時間によって自由になるとき、
どこか過去の自分にタイムワープしているのかもしれない。
何にしろ、
何かに没頭する時というのはもはや条件を選ばない。
むしろ、多少不自由さがあったほうが
より夢中になる深度が増す気がして。
5,000円で何でも好きなお菓子を買って良いよ、と言われるより
500円だけで好きなお菓子を出来るだけ多く買ってね、
と言われる方が、そのプロセスに没頭できるような感じ。
きっと、色々な好みはあるけれど、
人間はみな、根本的に自分に対してドMなんじゃないかと思う私は、
きっと、同じように感じてくれる人は
多いんじゃないか、と密かに期待している。
やっぱり夢中になることをした後の快感を得たいがために
今日もあえて自分のことを
多少、不自由な状態にしてみるのであった。
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