私たちの中にはみな、
「わたしはこうありたい」
という観念が存在します。
そして、その「わたしはこうありたい」という観念は、
たった一人では達成できないため、
「わたしがこうであるために」
「あなたはこうでありなさい」
という観念も同時に存在します。
この時、
「わたしはこうでありたい」
という観念と、
「あなたはこうでありなさい」
という観念は
一見すると違うものに見えますが、
よくよく考えてみると
「同じものから生まれている」
ということが分かりますよね?
一般的に、潜在意識の業界で
「他人は自分である」
「他者は自分の鏡である」
と言われているのはこのためです。
自分の中にある観念の中で、
わたしたちは選りすぐって
「これは自分のものにしておこう」
と言う感じで決めた後、
「じゃあ、残りのは自分のだけど、自分が持っていないものとしておこう」
という感じで他のところにそれを映し出そうとします。
つまりそれが「投影」だということです。
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今まで投影の法則を色々な角度から伝えてきましたが、
ある意味、これは私たちのことを解放してくれる
ほんとうに素晴らしい真実です。
でも、わたしが「ある意味」と書いたのにも理由があります。
それは、
「だとしたら、自分と他人の境目がなくなっちゃうじゃないか」とか
「だとしたら、嫌いな人も自分だと認めなきゃいけないじゃないか」
と、変な風に頑固になって余計に苦しんでしまう人もいるからです。
わたしからすれば、
「そこ」を越えればすべてのことが楽に捉えられるようになるんだけど、
どうも人は確固たる「自分はこうである」を守りたいように思います。
それはそれで、それなのですが(笑)
そんな頑固さから少しチカラをゆるめることが出来たとき。
素直に自分の現実が見れるようになるのかもしれませんね。
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で、話を観念にすこし戻します。
わたしたちは誰もが皆
「自分とはこうであったほうがよい」
というのを持ち合わせているので、
そのキャラを構成してくれる「他人」を周りに集めます。
他人という存在は、ごく一部の姿しか私たちの前には見せません。
というか、他人という物質・物体は目の前に存在していたとしても、
本当の意味での「他者」というのは
「自分の中にしか存在しない」生き物なんですよね。
ってことは、
目の前に見えている物体(おっと失礼。笑)
にどんな解釈を塗りたくっているのか?というのは
自分が「どんな他人が自分の周りに多いのか」
ということを考えればすぐにわかってしまうということなんです。
そこから更に、色々な角度で解釈を広げていくと
他者に対する解釈とともに
「自分の中で信じ切っている【わたしとはこうである】という観念」
が見えてくる、というわけですよね。
これほどシンプルで面白いことはないと
個人的には思っています。
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例えば、わたしの周りはどちらかと言えば
そうだな…
「しっかりモノ」がとても多いです。
というか、
「増えました」という感じでしょうか。
昔はそうではありませんでした。
今は多くの人に頼って生活しているし
仕事もたくさんの人のチカラを借りているのでわかるのですが、
昔はもっとこう、
「自分がやらなきゃいけない」
という人間でいたかったように思います。
色々なことがあって、
今のわたしはきっと自分のことを
「出来ない奴」だとか
「どうしようもないところもある奴」
という前提で生きている気がします。
ただし、その前提に対してネガティブな念はちっともありません。
一人で生きているなら、
「どうしようもない奴だ」
という前提に対して、ネガティブになったり
不安な気持ちになったりするでしょう。
でも、今はこうして潜在意識のことがわかるようになったので、
自分と世界はひとつだ、という感じに思えるのです。
自分と他者は、共同体だ、というか。
「わたしの世界は、わたしとわたしの周りで出来ている」
という感じでしょうか。
だからね、
「わたし個人」が偏っていたり
欠けていたり、何かが出来なくたって、
「全体的に見て、パーフェクト」であれば
それでいい、
って思ったんですよ。
それが先ほどの
「わたしの世界は、わたしとわたしの周りで出来ている」
という感覚でしょうか。
だから、
「出来ないこともいっぱいある」わたしと、
「それを支えてくれるしっかりモノの周り」
という関係図は、
どちらが他者で、どちらが自分であるとかどうでもいいんです。
「総合的に、わたしである」のだから、
わたしが別に出来ないことがあったって、いいんじゃね?
って感じになったんですね。
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そうともなると、
自分の欠点を探してどうのこうの埋めようという気もなくなります。
だって、
「ちゃーんと自分の願いは
自分と自分の外周がセットになって叶えてくれている」のだから。
この世界はすごいな、と思うわけです。
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もうちょっと例えばでいきましょうか。
私たちの中には
「こうだったらいいな」とか「こういうのっていいな」とか
理想の価値観や観念や世界というものがあります。
いわゆる「幸せの形」というやつです。
ですが、実はその奥に、更に別の観念があります。
もはやそこは観念というよりも
ただの「必然的な世界」でしょう。
わたしがよく使う言葉で言えばそれは「世界観」です。
世界観とは、
「こうだったらいいな」じゃなくて
「こうだな」です。
世界観とは
「こういうのっていいな」じゃなくて
「こういうのなんだよな~」です。
若干の違いはありますが、理想型ではなく自分の中にある
確信的な世界のことです。
だから、そもそもそこには「幸せ」とか「不幸せ」とかは
ありません。
価値評価や、正当性のある世界ではなく
「ありのままで、完璧」な世界ですから、
判断基準を持ち出して、誰かや何かのものさしで計ることができないもの、
ってことです。
本屋さんにいくと、実に様々な小説がありますよね。
どの小説をとっても
「判断」をすれば、完璧に評価されるものなんてありません。
☆いくつ、なんていう感じに評価されたとしても
あれは完全に「好み」の問題であり、
小説そのものの価値を現すものではない、
ということなんです。
わたしたちだって、あのように本屋に並ぶ
小説みたいなもんです。
タイミングよく売れる本として並ぶ運命のものもあれば、
そうじゃないものもある。
それに対して「良い・悪い」と判断するのが
人間の思考であって、
そんなもんは、世界観からみたときにどうだって良い。
だって、判断も善し悪しも
「ただの好み」だから、ってことなんです。
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わたしが何を言いたいかといえば、
本来わたしたちの中にはそれぞれ「世界観」
というものがあるのだけど、
その世界観とそぐわない「価値観」を持っていると、
現実に様々なズレが生じてくる、ってことです。
その世界観と価値観のズレの間に
感情が入り込むってことで。
そういう風に考えた時に、
自分の世界観と価値観のズレ、というものが
どんどんなくなっていくということは
(近づいていく、ということは)
自分の中で、統合がはじまる、ってことなんです。
ここらへんもっと言語化したいな。
…と思っているので、そのうち多分、
公開講座かなんかすると思うので楽しみにしていてくださいね。
はい、オチが思い付きませんので
今日はここまで。
また気が向いたらどう世界観に気付けるかについて
書き出してみたいと思います。
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