幸せとは努力と無縁のところにあった、と
認めること。
それは時として過去の自分を裏切るような気持ちになります。
何かがうまくいくことと、
自分の「我慢」は関係がなかったんだ、と認めたり、
自分の努力や苦労と幸せが必ずしも一致するものではない、
と認めることは
今までの勘違いをほどくひとつのきっかけになります。
ここ1年は特にそう感じることが増えてきました。
苦労して努力したことよりも
楽しみながら一生懸命やってきたことや
その瞬間瞬間が私を幸せにしてくれていたんだ、ということ。
また、逆にそう考えた時に
苦労も努力もせずに今ここで幸せを感じても
OKなんだということを
自分に許可することが出来た1年くらいでした。
背中の荷物がおりて、
そもそも幸せそのものに対する興味も薄れた気がします。
「当たり前なものには興味を抱けない」のと同じように、
「幸せなのが当たり前」になってくると、
そもそも、そこに興味を抱くことが出来なくなるのです。
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何かを頑張るのは、それが何かの目標達成や
求めている幸せのカタチだから、ではなく。
単純に「がんばること、そのものが楽しい」から
がんばるんだ、と。
そういう基準にして生きてみると、
案外、世の中がんばることってあんまりないのかもしません。
自分の求めていることや
達成したいことが
「自力」ではなく「他力」によって
常に運ばれて、
そしてわたしたちはただ「受け取るだけで良い」のだと
割り切ることが出来れば、
自分の身体やこころを硬直させるような
ムダな緊張も苦労も努力もいらないような気がします。
努力や苦労から緊張や呪縛がとれたとき、
残るのは「集中」だと思うんです。
この「集中」は「夢中」と言うことも出来て。
この「夢中」こそが、
「ただ、受け取る」ということなのかもしれません。
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(過去記事の本文より)
結局うまくいくとかいかないとか、
どうでもいいの。
何をしてくれるとか、何をしてくれないとか、どうでもいいの。
こっちを向いてくれるとか、向いてくれないとかじゃなくて
自分がずっと見ていたい、応援していたい
支えていたい、出来ればずっと笑顔でいてほしいって、
その人の存在そのものが愛おしい、って。
そう思えたら、勝ちじゃない?
こんな風に書けた3月のわたしに
今の自分が救われて、なんだか滑稽な気分です。