本当はみんな、自分自身を信じている。
ねっこの部分では
自分は出来る、って信じている。
でも、その「信じていること」を
表現するのに
あまりにも条件が足りない、と思い込んでいるんだ。
もっとお金があれば、自分を堂々と信じられるのに。
もっと時間があれば、自分を堂々と信じられるのに。
条件をクリアすれば、
自分を信じていい、って思っている。
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本当は「できる」って
どっかで思っているから人は悩む。
本当は大丈夫、って思っているから
そうじゃないかもしれない、とちょっとでも不安になると
それに対して過剰に心配をする。
ほんとうは、ねっこでは、信じているから
だから人は揺らぎ、不安になり、
そして試そうとする。
自分を信じていない人間が、
出来ないことに悩み、
不安な未来に頭をかかえ、
痛みに対して、手を加えようとはしない。
自分を信じていない人間は、
自分に何が降り掛かろうとも、そもそも信じていないのだから
もはや、どうでもよくなっちゃうんだ。
自分を信じることが
何かをクリアすることでやっと達成されるし、
認められるし、はっきりできる、と。
そう思っているから
目の前に様々な「条件クリア」がやってくる。
その条件クリアが積み重なると
人はだんだん「足りない」を探すことがクセになるんだ。
ほんとうは、何もクリアしなくても良い。
何かを得る前に信じていたらいい。
結果が出る前に、自分を愛し、
証拠が見える前に、誰かを信じる。
すべて、順番は逆だったんだ、と気付くまで
そのメッセージは続く。
—
証拠がないものを信じるのって
頭では怖いですよね。
結果が見えていないことに対して
「それでいい、条件はクリア」と思えないですよね。
でも、ねっこでは実は信じている。
できる、と信じているし
大丈夫、と信じているし、
わたしなら、と信じている。
だから人は夢を描き、憧れを見て、
そして前に進もうとする。
壁は乗り越えるものというより、
その壁が必要に違いない、と勝手に決めつけた自分に気付く為のサイン。
本当は、いらないんだよね・・・。
と、わかりつつ。
ただ、その条件クリアが楽しくて
嬉しくて
そのプロセスに出会う全てが愛おしいと思えるから、
人はまたきっと、勘違いをしていくのだろう。
わたしには、もっとこれが足りないのではないか。
わたしには、もっとこれが必要なんじゃないか、と
何か大切な気付きを得るために、
人はそんな勘違いをしていく。
だから、別に怖がらなくていいのかもしれない。
信じられない自分を怖がらなくても
表面的な自信なんてなくても、
また
「自分を信じているという証拠」なんてなくても…。
いいのかもしれない!?と思えた時に、
なんか別の道が開ける気がする。
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とは言え、
どれほどそれを理解しているつもりでも
人は忘れ、妄想し、変な空想を抱いて
痛みを感じる。
生きてる、っていいな、と思える瞬間が、それ。
わたしにとっては少なくとも、今は、それ。
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