自分の気持ち、というものは
実によくわからないものだなと私は最近思います。
どちらかと言えば、
今よりももっとバリバリと仕事をしていた頃
(とは言え、仕事量は今の方が遥かに多いのですが、
気持ちの面で、バリバリ、っとな)
やけに自分の気持ちというのは
はっきりしているものだ!と思っていました。
そこからトゲがなくなり、
良い意味で丸くもなり
(身体も太り。笑)
だんだん自分の気持ちも分からなくなることが増えました。
それって、わたしにとって
素晴らしいことでもあります。
人間らしくなったな、という感じでしょうか。
自分の気持ちがわからなくなる、
というのに、
どこかに安心感を覚えるなんて
変な話ですよね。
—
昨日読んでいた小説に書いてあったことがきっかけで
とたんに「自分の死」について考えたのです。
自分が死ぬ、とは何だろうか。
そこからなんとなく
「自分」というものが見えてくる気がするのです。
例えばわたしはいつも公言しているように、
根っからの寂しがり屋だもんで、
自分をあちこちに残したい、と思って常に生きています。
誰かの心の中や、
誰かの暮らしの中や。
こういったことを思い付いて
つい、やっちゃうのってもしかしたら
そういう寂しさから来るのかもしれません。
誰かの心の中に
「わたし」という名の小さな爆弾を落としたいなあ、って
そう思うのです。
誰かの中に落とされた小さな爆弾というのは
そこで姿を失いますが、
誰かの中にその小さな爆弾の衝撃は残ります。
それが「わたし」の正体です。
—
つまり、難しいことを言えば
「わたし」だなんて本来はどこにも存在せず、
今ここでパソコンを叩いているこの実在する物体だって、
ただ生きているだけでは「存在」とまでは呼べない。
誰かの中に根をはるようにして存在したい、
と切望するのは
生きるものとしてごくあたり前のことなんじゃないかと思うのです。
生きていることを考えるとき、
どうしてもわたしは
誰かの中に残りたい、
と思います。
そして誰かの中にハタユカを残しておくことで
きっとわたしの命そのものがなくなっても
誰かの中で「ハタユカ」が生き続ける。
生きる意味、というのが
自分の生きた証を残すことに隠されているのだとすれば
わたしたちはつくづく、
生と死の真実にさみしい思いを抱きながら
きょうも頑張っているんじゃないかなあ、
だなんて思うわけです。
—
最近は、この講座をやるってのもあって
改めて仕事についてもう一度考えるようになりました。
お金を頂きたいと思うのはなぜか?
ただ生きるためならば、
お金よりも直接的な物資を欲しいとわたしたちは願えばいいのに、
どうして私たちは「何か」と交換するツールが
欲しいと思うのだろう。
そもそも、そうやって考えると
お金がほしいときって、結局「お金によって得られる何か」が欲しい時じゃない。
そこには明確な目的も対象物もないわけですよね。
これは恋愛にも同じことが言えるのだろう、と思います。
本当は、誰かとの間に「信頼」が欲しいのに、
その信頼と交換できるようなツール
(分かりやすい言葉だとか表現だとかプレゼントだとか、もそうかも)
を欲しいと思う。
ほんとうに欲しいものが見えているのであれば
直接的に「ほしい」と言えばいいものの、
資本主義社会のこの「お金でほしいものと交換する」
みたいなクセが染み付いちゃっているから、
どうも直接的に欲しいものに欲しいと言えないのでしょう。
でも、もっと深く考えてみた時に、
わたしたちは、お金だとか分かりやすい愛情表現
(愛しているとか好きだとかいう言葉もそう)を通じてでしか、
欲しいものは手に入らないと思っている割に、
間に何かを挟むことで安心をしているかもしれない、
と思ったわけです。
いつでも、欲しいものが手に入るように
お金がたっぷりあればいい、と思えば思うほど、
どんどん欲しいものが分からなくなる。
いつでも、欲しい相手が手の中にいると感じられる為に
愛情表現や分かりやすいカタチがあればいい、と思えば思うほど、
大切な相手との間に埋まらない溝が出来る。
かなしきかな、そういう性なのだ、と
わたしなりに落としどころを見つけてみるものの
分かっていても、日々を楽しく暮らすエッセンスになるかどうか…
はて、曖昧なものでございます。
—
なんだか、タラタラと長く書きましたが
結局わたしは、
「じぶん」が分からないのだと思います。
だから、書くのです。
だから、潜在意識を学んだし、
だから、伝えるのです。
「自分」が分かっているから、
今のわたしがいるのではありません。
分からないからこその行動が、
私の生きがいを様々な形で支えてくれている。
その事実に感謝して。
今日はつらつらカキモノをする時間を過ごしたいと思うのでした。