よく、変われない、変われない、
わたしはなにも変わっていない、と嘆く人がいる。
そういう人は、表面上変わっていないけれど、
内面の「変わりたい」という気持ちは
コロコロ変わっていたりする。
ほんきで思えないことは、
コロコロと心のお天気をゆらがすのだ。
また、よく、
「ありのままでいいわけなんか、ない!」
と言う人がいる。
そういう人は
ありのままでいていい=惰性
に聞こえるのだろう。
ありのままでいてもいい、
わけがないかどうかなんて、ぶっちゃけどうでも良い時があるのだけど、
でもあえて言うならば、
「ありのままでいてもいい」と
心から許可できた人は、
おのずと、いや、もっと本腰あげて
「もっと変わろう」と思い、
行動するのだろう。
—
どちらが正しい、ということが言いたいわけではなく
状況や仕組み、内側の状態をわたしは伝えているだけであって
「ありのままでいてもいい」
が「固定」や「停止」を生むことはない、
ということが伝えたいのであーる。
非常にパラドクスなのだけど、
ありのままでいてもいい、と本気で理解した時、
ありのままでなんか、いたくない!と
同時に本気で思うものだ。
それは、自分そのものを愛していないからでもなければ
ありのままでいてはいけないから変化をしたいわけでもなく、
自然に次のヴィジョンが見え、
きらきらとこちらを誘うような映像が浮かび、
いやでもそちらに吸い込まれるようにして身体が動き出す。
自然な生理現象、
そして螺旋状に上がり続ける人間の宿命なのだとおもうだ。
—
ちなみに、余談をひとつ。
人が成長し、螺旋階段をあがるようにして
上にのぼっていく過程が常だとしたら、
たとえ同じような問題を抱えたとしても
それを「過去の何かしらの問題だ」
と捉えるのは非常にもったいない。
過去とまったく同じ問題などひとつもない。
わたしたちは着実に、確実に
「今、ここ」だけを刻んでいきていっている。
荷下ろしをしながら、
どんどんシンプルな上層階へ。
そういうつもりで生きていたら
何かを蓄積することは、
何かを捨てていくことと同じことなのだ、とわかるのだと思う。
とは言えわたしもまだまだ、
息を吸うのは得意でも、
気付いたら息を吐き忘れて自分が苦しくなっている。
でも、着実に
階段は上へ、上へといっている。
そして、その度じぶんも、着実に身軽になっているんだ。
持っていたものから栄養をもらい、
肉体へと刻む。
そしたら、持っていたものを所有する必要はなくなる。
なぜなら、そのものからもらったエネルギーは
既に肉体にちゃんと、刻まれているのだから。
お金も、時間も、愛情も、感情も。
使ったならば、形はなくなれど
ちゃんと刻まれていることを確認しよう。
そうすれば、荷下ろしは苦じゃなくなる。
何かを失う恐れだって、幻想だとわかるのだろう。
刻まれたもの。
わたしに刻まれたもの。
ぶつぶつあやしいけど、そうつぶやきながら、
今日はあとちょっと、がんばって仕事しようとおもう。
・・・息をはきながら、ね。
。