自分のために我慢することを辞める、とか
頑張らない、とか
好きなことをやる、とか
そういうの、わたしはずいぶんとやってきた気がする。
昔から割と自分勝手だったし、
自由は作るもの!と思っていたし、
ないならつくればいい!根性だったもんで…
何かが不自由であることや
何かが「ない」ということにそれほど嘆いたこともあまり記憶にない。
でも、ずっとこの業界にいて違和感だった…というか
よくわからなかったのが
自分を愛すること、
自分を大切にすること、だった。
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時として答えを知ることは、
なにも自分のためにならないと思うことが、よくある。
時間をかけて味わうことが
素晴らしい体験となることもあるように、
答えを知ることだけが人生の全てじゃない。
だから、
自分を愛せても愛せなくても
そのうちわかるだろう、と思っていたし、
愛せたからうまくいく、
愛せなかったからうまくいかない、とか
そういうのじゃないことだって、
あると思ってきた。
で、
いま、
どすんっと、わかったこと。
わたしが自分を愛していると感じるのはどんな瞬間?と問いかけたら、
ふと出てきた想い。
それが、真心だった。
真心を込めている時、
最高に気持ちいいよね。
思考ではなく、心から何かをやること。
文字を打つこと。
返事をすること。
相手の奥行きを感じながら、話を聞くこと。
相手の言葉から読み取れる心の苦しみを労わりながら、言葉を選ぶこと。
これが、わたしの真心を使うときだった。
そして、その瞬間はとても素晴らしい気持ちになる。
すべてを愛せる気持ちになる。
360度感じて、
見えるもの見えないものまだ見えてないもの、すべて、感じて…
その人や空間や景色を包む。
でもただそれだけじゃない。
それを感じた自分が、
さらになにをするか、どんなことをしようか、したいのか。
それを感じることが、真心を込める、ってこと。
そう、自分を愛することというのは、真心を通す、ということなのかもしれないと思った。
誰だって、目の前の人や周りの人、大切な人に真心を込める時、
最高に気持ちいいし嬉しいし楽しいし、素敵な気持ちになる。
その真心を込める時、自分は消える。
でも、自分の存在の中から溢れでる「別の自分」に触れることができる。
だからわたしは、
自分を愛することは自分一人だけでは完結できないと思っているの。
自分を愛するためには、みんなが必要。
それは、依存すると執着とかとは違って、もっとこう、なんというのかな。
助け合う、ってかんじ。
わたしの真心のために、
あなたにいてほしい、と。
だから、人の助けを受け取ることって大切なんだ。
人に迷惑をかけることも、
人に嫌われることも、時としては、ね。
—
真心という感覚は
色々な感情が混ざり合ってひとつになったときに生まれる。
優しさだけでは真心は生まれない。
かつての痛みや苦しみがあって、
真心は生まれる。
わたしたちは、真心そのものなのだと思うの。
そして、それ生かした時、
使った時、何かに込めた時。
強くなれる。
優しくなれる。
愛せる。
愛されることへも心開けられる。
幸せだ、って思える。
こんなこと、昔の自分だったら言わなかっただろうな。
でも今日、ふと考えていた。
人はなぜ、お金が欲しいのだろう。
なぜ、時間が欲しいのだろう。
なぜ、愛されたがったり、
成功したがったり、認められたがるのだろう。
結局、それらを得ることによって安心できると思っているからなんだけど、
でも、違うのよね。
得ずとも安心できるのよね。
得ずとも、得た後の安心感は今ここで作り出せるのよね。
でもどうやって?
そう考えた時に、真心を思い出した。
真心は信頼と安心と安全の上にしか成り立たない。
逆に言えば、真心が思い出される時、人は安心と信頼の中にいることができる。
さらにもっと言えば、
本当のところ、自分のためにどうこうしたい人はいない。
変わりたいのも、
お金が欲しいのも、
愛が欲しいのも、
時間が欲しいのも、
恋人が欲しいのも、
家が欲しいのも、
自分の真心を生かすための
大前提となる安心や安定、信頼がほしいから。
ひとは、欲しいものを獲得した後にこそ、
大切な想いを持っているんだよね。
欲しいものがあることも、
達成したいことがあるのも、
解決したいことがあるのも、
どれも間違ってなんかいない。
でも、
得ること、獲得すること、成ることだけで止まるのではなく、
その先にある、真心へ。
そこに、意識を伸ばしてみよう。
必ず気持ち良く成るはずだ。
自分が素晴らしくなりたいのも、
もっとモテたいのも、
稼げるようになりたいのも、
すべて、
真心へと繋がってるのだとしたら。
それって、とても素晴らしいことなのかもしれない。