考える、と意識する、は全然ちがう。
例えば学校で「勉強しようと考える」ときと、
「勉強しようと意識する」とき、
結果に違いがでてくることが予想できるだろう。
確かに言葉の定義の違い、というか
ニュアンスの違い、というか。
そういうもんだと言えばそうなのだけど。
考えることはしなくてもいいけれど、
意識したいことだけを意識しよう、と
思うことがよくある。
例えば、心の話。
自分がどれだけすばらしいか、
考えて生きよう、と言われてもピンとこないかもしれない。
人の気持ちを考えていきよう、と言われても
そんなの覗けないのだから仕方がないじゃないか、となる。
でも、人の気持ちを「意識してみよう」と言われると、
そこには思考以外の、別の想像力が働く。
結局、あたっているにしろいないにしろ、
「意識」することで芽生えるひとつの想像力は、
わたしたちの中から生命力みたいな
パワー減をつけるスイッチになるのだ。
想像が乏しいと、その分、生きる気力が乏しくなる。
でも、想像力が乏しい人がいるのではなく、
そのスイッチをつける方法を知らない人が多いだけなのだ。
想像してみよう。
考えるのではなく、
想像するの。
考えるのではなく、
意識をするの。
意識をする、ということがどういうことか考えだしてしまったら、
そこもまた、想像するの。
意識する、ってどういうことかな、て。
想像するって、こんな感じかな、って。
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答え探しの日常から、
想像する日常へ。
そして、正解や不正解という枠に囚われている日常から、
創造し証明する、という自由な世界へ。
考えるな。
想像しよう。