批判や否定を100%恐れなくなることは不可能だと思っています。
どうしても人の判断や評価で自分を正当化したい私たちがいるし、
また、他者からの「視線」こそが、
わたしたちを創り上げているからなのです。
(まぁ、本当は違うのだけど、それはおいといて)
でも、それを気にする思考を緩和することが出来ます。
そして、気にしたところで
「気にしている自分を気にしなくなる」ことも出来る。
その時点で、誰かからの批判や否定は
チカラをもたなくなり、
自分にとって何かをすることや
ありのままでいることに何の影響も及ぼさなくなります。
—
その方法、というか
あり方みたいなのを、私自身じっくり自分と対話しながら見つけてきました。
世の中には様々な方法や考え方がありますが、
一つ一つ吟味しながら、
検証した結果です。
その方法が万人に通用するかどうかはわかりませんが、
360度においていい影響しか及ぼさない方法だと思っていて。
みなさんは、それをどんな風にイメージしますか?
批判を糧にするのではありません。
また否定してくる人を拒否するのでもありません。
その方法とは…
—
「やりつくすこと」
です。
マッチョな方法ですが(笑)
物事をやりつくしたとき。
結果がどうであれ、それを手放している自分がいることに気付きます。
でも、
どこかで手抜きをしたり、
どこかで遠慮をしたり、
どこかで自分にバツをつけながら歩むと、
「やりきる」ということが出来ません。
これは、一生懸命頑張る、という表現のニュアンスとはまたちょっと違うもの。
また、努力をする、とか
100%のチカラを込める、とか
そういうニュアンスともちょっと違います。
わたしにとっての「やりきる」とは。
「込めたいものを、しっかり込める」ことだったり、
「自分のハートに遠慮しない」ことだったり、
「頭ではなく心をしっかり込める」ことだったり、
また
「緊張しない」ことでもあったりします。
そのかわり、
「集中」することや「夢中になる」こと。
これも、大切だと思います。
—
何かを「やりきった」と思うとき。
そこには実に色々な気持ちが隠されているのでしょう。
辛かったこと。
悔しかったこと。
好きだと言う気持ち。
うまく表現できない気持ち…。
どれひとつたりとも欠けることなく、
全てを包括して「込める」
言葉に「込める」
行為に「込める」
一つ一つの動作に「込める」
…不思議なんです。
無理せず、
自分自身を丁寧に、
そして、心地よい方を妥協しない、と。
そう決めているといつの間にか
自分のなかで「やりきる」ことのほうが心地よくなっていきます。
例えやりきったことにたいして批判があったとしても
きっと恐れることはなく自分に胸をはれるでしょう。
そうやって、少しずつ
「やりきった」ことを積み重ねた時、
気付いたらものすごく大きなギフトに変わっていたり、するのです。
—
わたしは、それを意識するようになってから
毎晩寝る時に、
自分のやりきったことを数えるようにしました。
例え数が少なくても、
「あれをやりきれなかったな」と思っても
そこで自分を責めません。
何かを「やりきれない」時というのは、
どこかに無駄なチカラが入っていたり、
しているんです。
だから自分を責めたり後悔するのではなく、
「どこを無理していたかな?」
「どこにチカラが入りすぎていたかな?」
「どんな風に集中しようかな?」って。
そう、振り返ってみるのです。
そして、忘れずに
「今日もおつかれさまわたし」と〆る。
そうやってね、
自分の中の無駄なチカラを抜いていきます。
—
余分なものが入っていると、
要らない情報も入ってくる。
本当は、否定や批判なんて、
吸収しなくてもいいじゃない?
どこかにはその声、存在するのだろうけど…
別にわざわざ取り込む必要はないわけ。
だから、
それを自分の中に引き寄せない為にも、
自分の中から余分なチカラをぬいていく。
ピュアなエネルギーを込める、
ということが
とてつもなく心地よく自分を愛せる道につながること。
ぜひ、多くの人に感じてみて欲しいな、と思います。
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4月19日@東京
久しぶりにお金の暴露セミナー、します。