しっかり心と向き合うことも大切。
でも、ここぞという時は
自分の反応をちょっぴり脇において
やることをやった方がいい時もある。
この見極め、というのは
何度か経験しないと自分で判断つかないのだけど、
いつまで経っても、
心を原因にしてられないときも、あるのだ。
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確かに何かをやるときに、
少しでも違和感を感じるとその手が止まってしまうことがある。
何かに対して特別にこだわり「すぎている」と
自分がそれと反したことをやろうと思った時に
身体の中から抵抗が出てくる。
いわば、
「習慣」からの「脱却」はいつだって
「不快」なものとして、現れるってことなんだ。
だけど、
最初は不快であったとしても
それを超えて、新しい習慣を手に入れなければ
先に進めない、ということもあるだろう。
そう言う時は、
思い切って自分を裏切ってみて欲しい。
こわい、を裏切る。
不安だ、を裏切る。
言葉の表現は「裏切る」と書いていてあれだけど、
もっと言うと、
「それとは別の自分を信じる」ってことでもあるのだ。
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思えばわたしは、いつだってこうやって
いろいろなことを乗り越えて来た気がする。
違和感を乗り越える。
自分の中の抵抗を無視してエイヤ!!と進む。
時には、ものすごく恐れているところに
自ら足を踏み入れ、
時には、すごく嫌だなと思っていることに
あえて自分が手をつっこんでみる。
そうすると、大抵
「幻想だった」「妄想だった」ってことのほうが多くって、
断然「挑戦してよかった」が残る。
気付けてよかった、
思い込みだったんだね…ということに。
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人間は、頭でわかったとしても、
既に習慣化されたことを変えることが
良いことであれ悪いことであれ
最初はそれに「抵抗」を覚え、
「不快」なものであると、錯覚する。
これは、潜在意識のプログラムが
わたしたちに、簡単に習慣をやぶらないようにしているプログラムであり、
潜在意識には
「これが良いから、これが悪いから」という判断基準で
習慣を選ぶことはない。
ただ、繰り返し行われていることを
習慣であるとして保存する。
だから、本当はわたしたち、
それを決めるのは自分であるということを
知らなくてはいけない。
習慣はわたしたちをつくる。
でも、わたしたちにしか
習慣は変えられない。
それを変えるとき、
最初は大体が不快なものだ。
だから、不快なものにあえて首を突っ込むことって
とても大切なんだ。
んだ。
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