昨日、もやっとしたことがありました。
でも、もやっとしたので
「まぁ、いいか、後で考えよう」と思いました。
もやっとした「ので」
「後で考えよう」
と。
・・・ちょっとおかしい回路だと思われるかもしれませんが、
わたしはいつも、こうやっています。
—-
外側の世界で何が起こるか、は
コントロールできない。
でも、何が起きた時であっても、
自分がどうあるか、
何を感じることにするか、
それは自分で決めることが出来ます。
もやっとさせられた人のことを
変えてもいい、
怒ってもいい、
否定してもいい、
ダメだししてもいい、
「そうしてもいい」が大前提だけど、
わたしはその上であえて、
「後で考えよう」を選びました。
—
いつも、一瞬一瞬が、
選択の連続だと思います。
一瞬、一瞬、
自分を変更することが出来る。
外部に惑わされるのではなく、
自分から関わり方を決めること。
それが、私たちの持つ
自分を愛することでもあると思うのです。
—
あの人の言葉の「せいで」
私がイライラした。
あの人の行動の「せいで」
私は怒っている。
あの出来事の「せいで」
私は悲しい。
あれがない・ある「せいで」
私は苦しい。
この状態では、
わたしたちの「主導権」は自分自身ではなく
他者や、外側の出来事がもっていることになります。
私たちの状態を決める主導権は、
外側の世界にはない。
あるのは、いつも自分の中に。
主導権争いなんて、することも本当はないのです。
自分がそれを持っているのだから。
それは自分自身のなのだから。
—-
さぁて、今日は金沢に。
何を食べようか、何を食べようか・・・と
食いしん坊はそればかり、考えています。
お気に入りの帽子とともに。