「いつも怒っている人」は
寂しさの表現がヘタクソな人。
「いつも悲しい人」は
愛情が大きすぎて行き場がない。
「いつも悩んでいる人」は
それだけ想像力豊かな人。
「いつも無愛想な人」は
ほんとうにとっても笑顔を大切にしている。
「いつも我慢している人」は
弱さを見せない人。
「いつも適当な人」は
本番にものすごく強い。
あなたが見ている「いつものその人」は
色んな顔を持っている。
色んな優しさを持っている。
表現がヘタクソな人が多くって
この世はまるで大変な世界に見えることがあるけれど、
もったいぶられた後に出される
不器用な愛情表現も、いいよね。
「いつも」に惑わされることなく
「相手の神聖」を見つけることが出来たら。
この世はもっと生きやすくなるんじゃないだろうか。
—
あの人を
「いつもの目」
で見るのをちょっとやめるだけでずいぶんと、変わる。
それは「相手のため」
ではなく、
「自分の心のため」
です。
自分の毎日を
「いつもの」
で見るのをちょっとやめてみる。
「いつものわたし」
じゃない、
「毎日、ちょっとずつ違うわたし」
がそこにいる。
それを知ると、時が流れる安心さというか、なんというか…。
そういうものを味わえる気がする。
—
わたしはちょっと変、というか
回路が違うというか、
誰かが、誰かの愚痴を話していると、
その相手の神聖を探してしまいます。
よく怒っている人の話を聞くと、
「あ~さみしいんだろうな~その人」
と思うし。
よく悩んでいる人の話を聞くと、
「想像力豊かすぎて、使うところ間違えたな~」
と思うし。
まぁ、とは言え、
嫌いな人は、嫌いです。
それはそれ、これはこれ(笑)
だって人間だもの。
嫌いだな~って、生理現象みたいなもんだよね。
—
でも、その人を嫌いな自分を嫌いになる必要もないし、
嫌いなその人を嫌いで居続けることを
選択してもいい。
「良い部分もある」と反対側が見えて、
それでもなお
「わたしは、嫌い」
でOK。
嫌いだからといって、
全人格を否定することは
自分を苦しめてしまうことになりますよね。
だから、わたしは嫌いな人がいたら、
「その人まるごと嫌い」なのではなく、
「その人の、この部分が、嫌い」
という風に、部分分けしています。
だって人間だもの(二回目)
—
どこかで昔聞いたことがあります。
この世のイチバン多い悩みは、
人間関係だ、と。
そして、人が一番問題を抱えて
客観的になれないのも
人間関係の悩みだ、と。
家族関係、
友人関係、
仕事関係、
恋愛関係、
夫婦関係、
親子関係、
全部、人間関係ですね。
でも、
人と人って、表面で向き合いながら、
内面で繋がりあっている。
どんなに「けッ」って思っても、
今そばにいるならば、
結構、高い確立で、何かを与えてくれたり
気付かせてくれる人だったりします。
逆に、どんなに「いいな」と思っている人でも、
その人の内面とつながりがなければ、
人間同士、関わり合うことはなくなっていく。
「神聖さを見つける」
というのは、
相手の奥行を想像すること。
単純な反応ではなく、
奥行に隠れているものを想像したときに
心の風通しがよくなるかもしれません。
(とはいえ、嫌いな人は、
嫌いです。笑)