全てに自分を見ている。
起こる出来事、
うまくいかない恋愛、
なかなか進まない仕事、
やる気が起きない勉強、
すべてに、自分を見ている。
例えばそう捉えてみてましょう。
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例えば、
「なんか知らないけれど、嫌だなぁ、と思う出来事」
を見たとします。
その出来事を「見た」のは私たちの顕在意識ですが、
その出来事を「感じている」のは私たちの潜在意識です。
もっと簡単に言えば、
「見ている」と思っているものと
「見えているもの」は違う、ってこと。
例え目の前の出来事は自分自身ではないにしろ、
(物質だったり、イメージだったり、現象だったり。)
でも、必ずそこに何かしらの「自分」を見いだしているのです。
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嫌な出来事、というのに対して
私たちは同時に
「嫌な自分」を見ています。
うまくいかない恋愛に対して
「その原因を作っている自分」をどこかで感じています。
密かに否定している自分の性質を、
「うまくいかない恋愛」を通してみています。
それが何なのか?を知ろうとせずに、
「見えている恋愛・相手との関係」
だけをどうにかしようとすると
うまくいかなくなってしまうのです。
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外側に現れるすべては
「自分自身との関係性」を教えてくれるもの。
「こういう自分の性質を、あなた自分で
超絶、嫌っているでしょう?」
ってことを暗に教えてくれる現実もあれば、
「ねー、こういう自分がいて
ずっと世の中に対してごめんなさい、ごめんなさい、って
言っているよね」って、
そういうことを暗に教えてくれる。
そのような現実のことを
「罪悪感を感じる現実」とも言います。
—
罪悪感を感じる出来事ってとても面白くて
その背後には必ず何かに対して
「ごめんなさい」と超謝っている自分がいるのです。
でも、実はどこかで
「ごめんなさい」とは素直に言えなくて、
どこかで拗ねていて、
「謝らなければいけないのは分かっているけれど、
でも認めたくない。でもごめんなさい。」
そんな気持ちが下の方に、下の方に隠れてしまって
何かしらの現象に罪悪感という形で出て来てしまう。
だからね、
罪悪感を感じたときは
「自分が誰に、何に対して謝っているのか」
ということに気付き、
そして
「どんな自分が(自分の性質が)
ごめんなさいとひたすらに言い続けているのか」
ということに気付くといいのです。
・何に対して
・誰に対して
・どんな自分の性質に対して
「ごめんなさい」とひたすら謝っているのか。
(本当は、心から謝りたいわけじゃないのに)
そうすると、見えていると思っている現実が
実はなんでもないただのダミーであることが分かる。
お金がないのも
恋人がいないのも
結婚できないのも
仕事がうまくいかないのも
ぜんぶ、
ダミー。
その奥にある
「見えている自分」が見えたとき。
その自分を感じることが出来たとき。
どんなに、くそったれ!と思って嫌がろうと
それは自分の一部であると愛せた時に。
ダミーの現象は消えてなくなります。
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もう誰にも謝らなくて、いいのです。
誰にもごめんなさい、しなくていいの。
後悔そのものは役に立つことがあれど、
「後悔の念」はわたしたちを輝かしてくれるものでは、
ないのだから。