2015年6月の過去記事です。
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誰かに嫌われたとしましょう。
ということは、
「嫌われるくらい魅力的だった」ってことです。
誰かに批判される、ってのも同じで、
「批判されるほど魅力的だった」ってこと。
ただただ、羨ましいんです。
ただただ、嫉妬されているだけなんです。
だから自分を嫌う人を嫌う必要はないし、
好きになる必要もない。
ただ、自分の存在が光となって
相手の影を照らしてしまっただけなんだ、と。
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とはいえ、誰かに嫌われたり
批判されることそのものは心が痛みます。
なぜなら、自分自身が批判されることを
よくよく知っているから。
批判された自分の性質についても
よくよく知っているから。
だから、
「お前に言われんでも知ってるわボケ!!!!」(怒)
っていうのが、
批判に対する、批判だと思うんですね。
—
そう思うと、自分も相手も、可愛いもんですよね。
で、逆に自分が誰かのことを嫌う場合。
わたしはですね、
結構、堂々と嫌うかもしれません。
本当に嫌いな場合、
私は相手のことを嫌いであると心から認めるし、
それに対して更なるジャッジはしません。
いや、嫌いなんだよ、と。
でも、
「相手のことが嫌い」なのと、
「相手のここが嫌い」はまた別ものであって。
だいたいのほとんどは、
「相手のここが嫌い」なだけであって、
相手そのものが嫌いなわけではなかったり、します。
ですから、
「あの人のここが嫌い」
であっても
「あの人のことは嫌いではない」
みたいな矛盾が生じることがしばしば。
そんなことを考えていると、
だんだんどうでも良くなって来て、
「嫌いは嫌い、でも嫌いじゃない。」
みたいになって、さらりと消えていくことが、あったりします。
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「好き」
も
「きらい」
も
あなたと私のどちらかで起きていることではない、と。
相手に嫌われたとしても、
相手にも自分にも、悪いところなんて、ない。
嫌う相手にも
嫌われるわたし、にも悪いところは、ない。
ただ、組み合わせが悪かったんだ、と。
性質と性質のマッチングがまずかった、と。
ただそれだけのことです。
ってことなんで、
もっと、嫌われていきましょう!
(え?オチ、これ?)
【追記】
結局ひとことで言うと、
「嫌われている自分を嫌うな!」
ってことです。
批判は「相手の反応」
嫌われるのも「相手の反応」
だから、わたしたちがどこの誰に否定されようと批判されようと、
例えそれが「家族」であろうと「親友」であろうと
「恋人」であろうと、、、、
自分の性質が相手の「タブー」にひっかかっているだけ。
ただ、それだけ。
批判される自分を、ジャッジしない。
更に言えば、
批判してくる人を、批判することもない。
風になびくカーテンのように、
するりとかわして、それで、いい。
さわやかに、いきましょう!
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