愚痴を言われても、
全く相手にする必要がない、
あるいはそれを聞き入れる必要がない、
ということについて今日はお話ししたいと思います。
みなさんも、ありませんか?
ついつい、愚痴ってしまうようなこと。
あるいは、
別に冷静になればどうってことないのだけど、
感情が高ぶっちゃって、
痛烈な批判を浴びせたくなるようなとき…って。
そんな時、
「お!」っと絶好なタイミングで
目の前に批判できそうな誰かや何かが現れると、
ついつい、それを餌食にしてしまって(笑)
不平や不満の対象として、仕上げてしまいます。
—
ここで私が言いたいのは、
「愚痴を言いたくなる相手」は
ただの「対象物」であり、都合良く使っているだけであり、
必ずしも「その対象物」そのものに対する愚痴ではない、
ということ。
例えば、
AさんがBさんの愚痴を言っていたとしましょう。
ですが、本当は別にAさんはBさんに対して
どうのこうの思っているわけではありません。
毎日がんばって、がんばって
それでも満たされなくて、何も報われない気がして…。
Aさんは「人生そのもの」に対する
何か膨大な不安と、不満を感じていました。
で、そこにBさんという
ナイス対象物が現れます。
なんとなく、自分が感じている「人生そのもの」という
膨大なものへの不安や不満、愚痴などを、
Bさんを批判すること、そういう人物に仕立て上げることによって
鬱憤をはらそうと、しているのです。
だから、
AさんがBさんのことをぐちぐち言うのって
必ずしもBさんがダメということでも悪いわけでも、ないのです。
—
こんなん、日常茶飯事です(笑)
人は、自分が感じている感情や不満を、
何か別の対象物に対して抱く事で
うまく気持ちの分散をし、
それによってバランスを保とうとしています。
本当はそんなことしなくてもいいじゃん、
って思いますよね?
それがねー
無理なんです(苦笑)
人間の本能的に、
このような「回避機能」は備わっていて、
投影というのは身を守るための機能なんです。
だから、恐れる事はありません。
投影する事も、
投影される事も、
その実情をちゃんと知れば、
なぁんも、こわくない(笑)
—
例えば以前ですが、
わたしがぽつりとFacebookにコメントした内容が
えっらい反響を呼びましてですね。
マスコミの報道に対する
ぽつりとしたつぶやきだったのです。
私はFacebookに
「ほら、報道は偏っていたね」と書きましたが、
はっきりいって、そう書いただけ。
そう思っただけ。
わたしは
『ほら、報道は偏っていたね』
と書いただけで、
「マスコミは信じるな!」とも、
「偏向報道がダメだ!」とも言っていないんです。
表現は思わせぶりだったかもしれませんが、
わたしはただ、
「あー世の中って、こうやって出来ているよね」
くらいのニュートラルな気持ちでいました。
でも、
「やっぱり、マスコミの報道は鵜呑みにしちゃダメですね!」
とか
「何で偏向報道と決めつけるんですか!?」とか
もう、実に様々。
みなさま、自分の内情を実に投影してくれていて
ちょっと面白くもありました。
どう報道したって、真実は歪む。
そういうものだなぁ、という感じだったのですが、
それに対するたくさんのシェア、
1200越えのいいね!
そして、色々な人の色々なコメントを見て、
改めて思ったのです。
…あぁ、
この人たちは私のコメントに書き込む事で、
普段言いたくても言えない感情や
話したい事や、
表現したい事、
押し殺している感情や、
他の誰かや何かに対する
我慢や怒り等を、
ここで、発散しているだけなんだなぁ、と。
だから、基本的に、放置です。
どんなコメントがあろうとも、
それを「私に向けられている」とははっきりいって、
思いません。
そういう感じだもんで、
人の批判やこちらに向けられる愚痴というものは、
「ただ、私(自分)が絶好の対象となっているだけで、
相手の愚痴や不満、批判の元出は、こちらにはない」
と、常々思っています。
(と、分かっていても、嫌なもんは、嫌ね。
だって、わたしはただの便器じゃないもの。
鬱憤は他ではらしてよね、と思う事もしばしばあり。)
—-
ただし、
一方的な愚痴は、まーったくと言っていいほど聞きません。
例えば、これはうちのこの協会のメンバーにも
伝えている事なのですが、
『意見なら聞く。
でも、ただの愚痴は聞かない。』
と。
意見や提案というものは、
批判する点と、その反対の素晴らしい点の両方を踏まえた上で、
「もっと、よくなるように」という想いが込められています。
だから、
こちらに対するのが
ただの愚痴なら、スルー。
批判的であっても、そこに「想い」が感じられる意見や
代改案であれば、
嫌な気持ちがしても、しかと受け止める。
もしあなたが愚痴の対象者になっているなら、
心強く、そこから離れてください。
自分を誰かの鬱憤はらすための対象物に
することなんて、ないんです。
便器になってはいけません。
そして、自分も然り。
誰かを便器にしているのであれば、
自分もまた、同じように扱われてしまうのです。
^^^^2015年7月の過去記事でした。^^^^