正義は、悪に支えられている。
また悪も、正義に支えられている。
気難しい表現をしたのは、
ワンピースを読みすぎたからではないです(おい、ほんとか?笑)
でも、そういうことですよね、
矛盾や表裏一体のものによって
成り立っていることがほとんどであるということです。
『ほとんど』という表現を使ったのは、
すべてがそうではない、という意味ではなく、
表裏一体を表裏一体としてではなく、
まるっと一つとしてみることもできる、ということ。
…とまぁ、また難しい表現をしてしまいましたが、
とにかく書きたかったことはこうです。
たとえば、自分のそばに
『悪者』が現れたとしましょう。
その『悪者』は
嫌いな人だったり、
拒否感を感じる人だったり、
自分に対して攻撃してくる人(そのように感じられる人)
のことでもあります。
この悪者が出てくるとき、
わたしたちは無意識に自分の正義を振りかざしたいとどこかで思ってます。
自分の正しさを証明したい、と。
—
そうすると、
正義が悪を作り出します。
悪は、正義にとっての『ある種の味方』でもあるからです。
皮肉な話ですよね、
あんなに嫌いなやつを創り出すのは、
正義を振りかざしたいと思う密かな自分の願望だなんて。
そんなこと、普通人は知りたくありません。
正義を振りかざしたいと思う自分と向き合うことは、
ちょっとしんどかったりも、します。
振りかざしたいと思うほどの正義など、もろくて弱くて儚いから。
叫んでなければ届かないような正しさは、本当は必要ないとこころは知ってるのです。
でも、人間は自分の正しさを証明して、自分の存在意義を確かめたいと願う。
正しさを叫び、受け入れられたときこそが、悪を倒したときだ、と。
悪の敗北ではなく、
己の正しさが認められたときに戦いが終わると、
どこか信じてます。
でも、
違うんですよね。
や、ほんと、
ちがう。
これ、昔のわたしがずっと勘違いしていたことでした。
自分の正しさを証明すれば、
自分の存在価値が得られると思っていた。
だから、自分の正義を伝えるための証拠集めをするのです。
誰かを蹴落としてでも、
自分の正しさを認めて欲しい。
正しさを認めてもらえなければ、
人として存在する意味はない、と。
そうでなければ、
わたしは生きている価値がない、と。
そうやって思って頑張っていました。
正しさを認めて欲しいがためにする努力は、
同時に苦労を生みます。
本人が快く楽しむ苦労ではなく、
本当の苦労、心労です。
自分の正しさを証明する、
証拠集めのために
仕事を頑張る。
成功しようとする。
良い人になろうとする。
誰かにいい人ぶる。
でも、
なぁーんにも自分の存在価値は得られませんでした。
—-
この記事にも書きましたが、
あるときから、
正義と悪の山を降りたのです。
わたしの人生に山は必要ない、と。
そして、正しさなど存在せず、
それは天気のように移り変わり、
風のように時には必要とされ、
台風ともなれば、邪魔者扱いされる。
正しさなんて、そんなもんだ、と。
そのために、わたしは身を削って
何のために誰と戦っていたんだろう、と思ったのです。
—
ちょっと本題からズレましたが、
今でも時としてわたしの世界に
悪者は現れます。
突如現れた時は、
相手に対してどうこうすることなく、
まず、自分がどんな正しさを認めて欲しいと密かに感じているのだろう、と
思い返すようにしています。
信じ続けなければ、失われるような信念は、
たぶん、本当の信念ではない。
だからこそ、
悪者を作り出した時こそ、
自分が握りしめている
『もう信じなくていい正論』
『もう証明しなくていい正しさ』を
教えてくれる時なのです。
そういう風に自分と向き合うのは、
とても優しい時間。
どんな悪者が現れたって、
正義として戦わなければ、いつだってこころは平和な気がします。