被害者意識に対して猛烈に批判する人がいますが、
では、あなたは完全に被害者意識がありませんか?
と言われればそんなことは絶対にない、とわたしは思っています。
大切なのは、
「被害者意識」になってしまうのは
自分を愛していないからではなく、
また自分を大切にしていないからでもなく!
『その方法を間違えちゃってる』
だけ。
使い方を間違えている何かがあるだけなんです。
?
例えば、コンプレックス。
これはまさに、わたしたちがわたしたちを愛するがゆえに生まれる
典型的な例です。
わたしたちがわたしたちに向ける
コンプレックスという愛のかたまりを
どうして否定することができましょうか?
いいえ、誰にもそれはできません。
例えば、マイナスな感情。
これもまさに、「傷ついた自分」を唯一慰めてくれる存在です。
だって、大切な人との間で何かがあったとき、
悲しみこそが、相手に対する「想い」を代弁してくれたりします。
大切な人との別れがあったときに、
嬉しい感情が出てきたら、困るでしょう?
だからこそ、悲しみは
わたしたちのために、わたしたちの愛のために、
何かを代弁する人として存在する。
あなたが悲しい時、
悲しみという感情はわたしたちによりそいます。
「傷ついたよね、そうだよね」って
悲しみが存在することで、わたしたちはわたしたちを愛します。
マイナスな感情で辛い思いをする人を
はたして誰が否定することができましょうか。
いいえ、それはできないのです。
?
昔、ある人にこんなことを聞かれました。
「ゆかちゃんはもし、
悲しみや辛さ、苦しみがあるのはどうして?って聞かれたら
なんと答える?」
と。
わたしは
「それは、自分を愛するがゆえに生まれる
反応のうちの一つです、と答えます」
と言いました。
ですが、心地よくない反応をしてしまうのは、
まるで、ハサミで大木を切ろうとしているように
適切なところに、適切に使われていないことがほとんどなのです。
被害者意識があるのも、
その被害者意識というものを「どこに」使えばいいのかわからず、
活用方法も表現方法も知らずに
心の中にしまいこまれて爆発してしまうだけなのでしょう。
誰もが音楽家や
ミュージシャンになったらいいのに。
だって、
失恋の曲も、
愛欲の曲も
すべて被害者意識から生まれるのですから。
それを生かし、
表現し、
別の方向に使ってあげるかどうか、の話。
だから、被害者意識も
コンプレックスも
罪悪感も、
心のブロックも
なんでもない
ただの言葉。
ただの素質。
ただの情報。
ただの材料。
そういうのに目をとられて、
大切なもの、見失っていませんか。
そういう表面上どきっとする言葉に焦りを感じて
「いるかいらないか」「なくすか残すか」
しか考えていませんか?
大切なのは
「活かす」こと。
罪悪感も
不安も
被害者意識も
コンプレックスも
「フルーツ」のなかに
りんごとか
みかんとか
バナナとか
キウイとか、
そういう名前の違いがあるだけで、
「自分を愛するがゆえにあるもの」
には、変わりないのです。
わたしは、いつだって
すべてのことに愛を見出したいと、思うのです。