私たちは、考えたこと、感じたことによって
自分を判断してしまう癖があります。
誰かに妬みを感じたら、
「自分は何か問題がある人かもしれない」となり、
お金に対する不安を感じたら
「自分はお金にブロックがあるかもしれない」となり。
感じことがストレートに自分そのものを表すとすれば、
このカオスな社会において環境の影響を受けるわたしたちは
とても大切なことを見失っている気がします。
結論から言えば、
別に感じていることがどうであれ、
考えていることがどうであれ、
それらとは関係なく
「自分はどういう人間なのか」と、
決めることができます。
ダメなことを考えていても、
ダメな人間ではない。
いやらしいことを考えていても
いやらしい人ではない、と。
言葉できくと「?」ってなりますが、
どうぞ深く考えないで読み進めていって欲しいと思います。
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例えば、体の調子が悪いとき。
おのずと、悪い思考しか浮かびません。
そのとき、体の調子が悪い人ではありますが、
悪い人では、ありませんよね。
例えば、お金の不安が湧いてくるとき、
おのずとお金に対する不安がある人になってしまいます。
お金に問題がある人かのように思えてきます。
ですが、お金の不安が湧いてくることくらい誰にでもあることで、
それとあなたが「お金に対する問題を抱えた人であるかどうか」
は別の話であるということです。
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前、ブログにこのようなことを書きました。
「悲しいことがある」=「不幸である」ではない、と。
悲しいからといって不幸なのではありません。
苦しいからといって不幸なのでもありません。
逆に言えば、
楽しいからといって幸せじゃない場合もあります。
お金があるからといって幸福じゃない場合があります。
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結局ここで言いたいことは、
「自分という存在を条件で縛らない」ってことであり、
「自分という存在を外側の現実で判断しない」ってことであり・・・
大切なのは、
なにをもっていても、
なにをもっていなくても、
なにができても、
なにができなくても、
なにを考えたとしても
なにを感じたとしても、
自分がどういう存在であるか
(BE)
はいつだって、今ここで再設定できる、ってことです。
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ダメなこと考えちゃったとしても、
自分のことを無条件に素晴らしい人と思えるかどうか。
仕事がうまくいかなかったとしても、
自分のことを無条件に大丈夫だと思えるかどうか。
外側の「条件」に依存しない、ということ。
それが本当の意味での自立なのかもしれません。
もっと適当に自分を判断しましょう。
もっと愉快なほうへ、自分の存在を決めていきましょう。
都合がよいと思われるかもしれませんが、
世界のすべては
「今ここ、自分はどういう人間であるか(Be )」によって決まるのであって、
世界があなたをどういう人間だと言っているのか、
ではないということなのです。