自分がやっていて「楽しいこと」と
やってみてうまくいかなくて、それでもやってみて、やってみて、ちょっとできて、
またできなくなって、それでもやってみて・・・を繰り返し、
すべてを出し切った後に見える「喜び」
この二つはまったく違うものだとわたしは実感しています。
どちらが大切なのではなく、どちらも大切。
この両方のバランスが日々の中に含まっていることで、
わたしたちは充実した日常を過ごすことができるのです。
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無力感とか、絶望感とか、いろいろなことに対する問題意識とか、
すべてふっとばしてくれるのは何かに夢中になっている時。
でも、人はただぼーっとしているだけでは
その夢中な時間はやってきません。
よく「どうしたら夢中になれることを見つけられますか?」と言われますが、
夢中になれることは、
「夢中になってみて」はじめて見つかるのだ、と思っています。
まるで禅問答のようですが、
目の前の小さなことに夢中になっているのを積み重ねているうちに、
どんどんそれが膨らみ、
「夢中な自分」が「夢中になれること」に出会う。
先に自分の状態からスタートし、
その後に現象化が起きるのです。
じゃあ、何にまずは夢中になるのか?
わたしは今日、
鏡を磨くのに夢中になりました。
トイレを磨くのに夢中になりました。
自分の化粧をするのに、夢中になりました。
たったそれだけのことで、いいんです。
夢中になる、という状態は作れます。
どうやってつくるのか?
その動作、
その行為、
その対象に対して
「興味をもつ」
ということからすべてが始まります。
なんで鏡こんなに汚れたんだろう?
何がこびりついてこの汚れがつくのかな?
なんでトイレって汚れるのだろう。
トイレってどのくらいの頻度で汚れていくのだろう。
まゆげってなんでこんな形しているのかな。
今ファンデーションを塗っているこの肌の下はどうなっているのかな。
子供の夢中になるパワーは、
その対象に対する興味と比例しています。
大人になればなるほど、
物事に興味を持つことに疲れてくる。
なぜなら、そこに答えがほしいと思ってしまうから。
答えなど必要のない「興味」に、
答えを出したがる癖が顔を出すからです。
鏡が汚れた原因なんて別にどうでもよくたって
その対象に興味をもつことができます。
トイレがきれいになればいいだけなので、
別にその答えなど必要ありません。
お化粧をするのだって、正解が必要なわけではない。
わたしたちの心を冷やすのは、興味を失い
正解を求め、そこに安住しようとするときです。
日々の中で、それを少しずつ変えていくことはできます。
無力感、無価値観、絶望感、何もしたくない気持ち・・・
わかります。
よくわかります。
数ヶ月に一度はやってきます。
そんな時ほど、
どうでもいいことにいちいち興味をもつ癖を。
そのうち、心も身体もホットになってくるのです。