昔、あるトークライブのときにこんなようなことを話したことがあります。
物語風で、きょうはいってみましょう。
—
例えばあなたが
まったく季節外れの春とかに、
「あまくておいすぃ~みかん」が欲しかったとしよう。
まぁ、春でも探せばあるだろうし、
みかんの甘さなんて、ピンキリなので
ここは細かく言わず、
とにかく
・普通に考えたらありえんやろ
ってものを、求めたとする。
で、潜在意識にそれを意図した。
心からお願いした。
その時に湧いて出てくる
(  ̄っ ̄)「無理やろ」
(  ̄っ ̄)「春にみかんとか、何ゆうてんの?あほやろ」
(  ̄っ ̄)「みかんは夏か冬やでふつう」
(  ̄っ ̄)「そんなんあるわけないやろ」
という、
「ふつう」から外れて欲しくない思考の声はとにかく冷たい。
でも、あなたはとにかく
ありえなくても
どう考えてもむりでも
ふつうに考えたらやめといたほうがいいことでも
誰にも理解されないようなことでも
「あまぁくておいすぃ~みかん」
をオーダーした。
——
潜在意識はバカ正直である。
なんでもいうことを、聞いてくれる。
しかし、
もっと覚えておいて欲しいこと、それは・・・
「潜在意識は、ぶっとんでる」ってこと。
例えば、みかんをオーダーしたとき、
潜在意識は確実にそれを与えてくれる。
しかも、最適で
もっとも都合がよくて
エネルギーがかからない
いわゆる「苦労しない」ほうほうで、
「あまぁいみかん」はやってくる。
オーダーした直後。
ふと歩いていたら、あるおばぁさんに出会った。
おばぁさんは腰が悪く、ゆっくりと歩いているが、
両手はふくらんだ買い物袋でふさがっている。
そのおばぁさんが、信号のボタンをおそうとするが、
筋力がなく、腕があがらずなかなか押せないようだ。
そこであなたは駆けつけて、ボタンを押してあげた。
そこにみかんがあるからではない!
ただ、ふと、かけつけただけなのだ!
そこでおばぁさんが、
「ありがとうねぁ・・・これほんの感謝の気持ちだよ」
といって膨らんだ買い物袋から何やらさがしている。
「み、みかんか!?」
と思ったら、
「りんご」だった。
—–
(  ̄っ ̄)「無理やろ」
(  ̄っ ̄)「春にみかんとか、何ゆうてんの?あほやろ」
(  ̄っ ̄)「みかんは夏か冬やでふつう」
(  ̄っ ̄)「そんなんあるわけないやろ」
またそんな声が聞こえる。
しょんぼりしながらも、しんなり湿ったおばぁちゃんの手からりんごを受け取る。
「ち、ちがう!わたしが欲しいのはみかんだ!」
そう強く思ったことでしょう。
しかし、願いが叶わなかったことに
やっぱり無理だわ・・・と思うのだった。
—
数日後。
ふと家を出ると、見かけたことがあったあのおばぁちゃんがいた。
近づいて挨拶すると向こうも覚えてくれていたようで、
なんだか話がはずんでしまった。
「ちょっとお庭の手入れを手伝ってくれんかのぉ?」と
そんなことを言われたもんだから、
なぜか知らぬがおばぁちゃんの庭の手入れをすることに。
「も、もしかしたら、み、みかんが落ちているかもしれない!?」
潜在意識にオーダーした直後にこのおばぁちゃんと出会っているし、
この前はりんごとかいうニアミスだったけど
今度こそ!?と
そう期待を膨らませ、
庭の手入れをしていたとき。
「ちょっと休まんかね」といっておばぁちゃんに茶の間へお招きされた。
そこには・・・
お茶と・・・・
またしても、りんご!!!!!!!
オッツ!
またりんごかよ!
ちげーよ、みかんだよ!!
そう思ったが、もちろんおばぁちゃんには悪気はない。
そうやって思いながら、茶をすすったのである。
——–
こんな風に、何度かニアミスをくらい続けた結果
「もう、みかんとかどうでもよいわ、りんごでよいわ、もうええわ」
となって忘れかけた頃。
いきなりおばぁちゃんの家に呼ばれた。
そこでは、おばぁちゃんの娘夫婦たちがきていて
なぜか家族団欒の中でごはんを一緒にたべることに。
気恥ずかしいと思いながらも、
おばぁちゃんの娘夫婦がつくったご飯を食べながら談笑していたときのはなし。
ガッシャーン!!!
とすさまじい音がして、台所のガラスがとびちった。
近所の野球ボーズが、窓ガラスを割ったのだ。
おばぁちゃんは「おやおや」といってその場を動かない。
けれども娘夫婦が「こらー!!」といって出て行った。
しばらくすると「近所の◎◎さんちだってよ」といって戻ってきた。
おばぁちゃんは相変わらず「そうかそうか・・・」と
にんまりするだけ。
謎の家族団欒だったけれど、
気づいたら日が暮れたので帰ることにした。
まだ、みかんの話、でてこないの?
と思わないでくれ(笑
あの窓ガラスが割れた日から数日後。
今度はめずらしく娘夫婦さんたちがピンポーンと訪ねてきた。
どうしたのだろう、と部屋に入れると、
深刻な顔で
「母が入院しました・・・」と、話した。
おばぁちゃんが入院したのだ。
一瞬戸惑う。
ちょっとしたただの近所付き合いなのだけど、
どうしてか動揺する。
娘夫婦は、
おばぁちゃんがどうやら自分に会いたがっているらしい、という話をしてくれた。
病院の場所だけ聞いて、その時はじめておばぁちゃんの名前を知る。
「遊びに行かせてもらっていたのに名前も知らなかったなぁ・・・」と思いつつ。
その2日後に、病院へお見舞いにいくことにした。
いつもりんごが出てくるから、
りんごを買っていこう!とフルーツやさんにいき、
何個かりんごとお花を買って病院にいく。
病室をくぐると、そこは何名かの部屋だった。
おばぁちゃんと同じくらいのおじいさんやおばあさんたちが、いる。
「おばぁちゃんきたよ」といって
りんごと花を差し出す。
そこでしばらくすると、おばあちゃんは、
とつぜん、はっと思い出したように
手を布団の中から出した。
「これをあげるよ」
そうやって言われて、しわくちゃの手から
何やらやわらかい球体を受け取った。
見てみると・・・
すごく小さいみかんだった。
み、みかん
「いまごろ?」と思ったけれど、
ありがとう、と言って食べようとするとおばぁちゃんはこういった。
「これは、この前窓ガラスを割った少年が
きょう、持ってきてくれたんだよ」
「手の中でね、
あまぁくなぁれ、あまぁくなぁれ、って言うと
あまくなるんだよ。
おまじないをかけておいたよ。」
とにっこり笑った。
ちょっと涙が出そうだった。
なぜなら、
みかんは
すっぱかったからだ。
でも、甘かった。
みかんの味、じゃなくて、
いろいろな話をおばぁちゃんとした
その日はとても
あまぁくておいすぃ、そんな1日でもあった。
「そういえば、そんなことお願いしたよなぁ」
と、帰り際におもう。
窓辺からおばぁちゃんが見える。
こちらに向かって手を降っている。
数日後、おばぁちゃんは亡くなってしまった。
あの時食べたみかんの味は、
もっともっと、
甘く記憶に残った。
—————————–
・・・・はいっ!ということで
おつかれさまでした(笑
この話が伝えていることを要約しましょう。
まず、わたしたちのオーダーは確実に通ります。
しかし、その結果よりも
オーダーしたものを手に入れるプロセス、のほうが
潜在意識(いや、もっと深層部の意識)は大切にしています。
甘いみかんを手に入れる
ことよりも
甘いみかんをどのようにどのタイミングでどのバランスでどんな流れで、
手に入れることが
主(自分)にとっていちばんなのか。
それをちゃんと考えてくれているんですね。
だから、方法がちょっとぶっとんでいるとき、がある。
それに常識もときになかったり、する。
よいこと、わるいこと、の区別がないから、
常識的な思考にとっては、え!?と思うこともある。
潜在意識にオーダーしたあと、
おばぁちゃんに目がいくようにしたのは潜在意識。
助けようとかけつけたのも潜在意識による衝動。
庭掃除を受け入れたのも潜在意識による受容。
娘夫婦も、潜在意識からのプレゼント。
(娘夫婦と出会わなければ病院にいくことはない)
野球ボールも、潜在意識からのプレゼント。
そのあと病院にいったのも、ふと思ったという潜在意識のなす技。
その日に行かなかったら、みかんはなかっただろう。
それも、おなじ。
そして、主は、みかんを、得た。
すべてが、「たまたま」という見せかけの
ある種の完璧な流れ。
それをわたしたちの潜在意識はできますが、
壮大すぎるものは、顕在意識では認識できません。
見えないのです。
地図が大きすぎて、見えませんが、
しっかりと、「たまたま」がちゃんと重なり合って、動いています。
ただし、
「あまぁいみかん」が
もし、とても大切だったとしましょう。
それならば、それを見つけるまでのプロセスも壮大に
演出がかかりますね。
すぐみつけたものは、すぐ手放します。
でも、たべたみかんが実際に甘くなくても、
ほんとうに甘いみかん以上に、
ものすごく大切なものを得るのです。
—-
ややこしい話に聞こえるかもしれませんが、
すべてのことを、この話のように捉えてみると、いいんだと思います。
正しさを求めるのもひとつのプロセス。
なにかにしがみつくのも、これまたひとつのプロセス。
「たまたま」のように見せかけて、
すべてつながっている、と思えたなら、
もっといろいろなことが愛おしく思えるのだと思います。
すぐにわからないことも、
すぐに叶わないことも、
すぐに変わらないことも、
それにはそれなりの「ベストなタイミング」ってものと
「ベストな流れ」ってものがあって、
それをいつだってわたしたちの奥深いところでは
ちゃんと見ているし心得ているしわかっている、と。
ただ知覚できないだけ。
思い出せないし、認識できないだけ。
でも、それはちゃんと「ある」からこそ、
いつだって「大丈夫」
そうだと思えるよね。
『それでも世界にYESと言おう。』
というわたしのコンセプトは、この感覚からきています。
普段は見えないし感じないし忘れるしわからないのだけど、
「たまたま」に見えるだけ、という
そんなプレゼント(present=今)が
いつもそこにある、と。
プレゼントはいつも
「たまたま」の顔してやってくるんです。
拗ねてちゃ。
こうでなくっちゃと言ってちゃ。
これはダメあれはいいとか制限してちゃ。
その「たまたまの連続」がもたらす奇跡を見失う。
だから、大切にしたいといつも思っているのです。
時間がかかることを。
プロセスが見えない道を。
人とのコミュニケーションを。
すぐに答えを出さないことを。
—
きょうはそんな、気分。
お話長くなっちゃった、えへへへへへ。
そんな気分になったのも、
きっと何かの「たまたま」なのでしょう。