この前ある日、彼と一日中東京を練り歩いてました。
実に、結構距離のある二駅分の間を
ぐるぐるぐるぐる。
次の日は、足の裏がちょっと痛いくらいでした(笑
急に生まれた急なオフ日。
めったにこういうことはないので
内心めっちゃウキウキしていたのですが、
もう、ひたすら冒険的なノリで
とある町をねっとり、歩き回っていたときのこと。
二人ともスマホの電池が切れたため
現在地がわからないし、どこに駅があるのかもわからない。
でも、そこで大きなビルが見え、そこが駅だとわかり
「あそこ」を目的地にしよう、となりました。
坂を下り、階段を登り、くねくね、くねくねと
実に何キロも歩き続けて思った。
『一歩』ってほんとうに、大きい、と。
—
確実に、届く。
目指す場所にどうやってたどり着こうかとするより、
目指す場所を捉え続けながら、一歩をどうやって歩もうかと考える方が、
安定していてとても確実。
好きなことがわからないなら、
「好きなことが見つかる」をとりあえず目指す場所にして、
「今日の一歩」を考える。
自分のことが好きになりたいなら、
自分のことが好きになることをまずは目的地にして、
まず、「一歩」を考える。
それの積み重ねって、
ほんとうに幸せなんです。
目的地にたどり着くこと以上に、
「目的地がある」ことと、
それに合わせて「一歩」を歩んでいること。
その二つが組み合わさって、
人は心の奥から安心感と安定感、
そして幸福を感じるのだと思うのです。
(そしてまぁ、一緒に歩む人がいてくれることで
それが倍増なのでしょうが。)
—-
『目的地がわかりません』
そういう人がいます。
でも、そんなはずはありません。
目的地を見つけることを目的にすれば、
必ず「一歩」が見えてくるからです。
『すぐに』
という人がいます。
すぐにたどり着ける方法を伝えることはできても、
一歩、一歩が見せてくれるその合間の景色や出会いに
その即効性は勝てませんよね。
わたしは大昔、
焦っていたし
できるだけはやく、と思っていたし
すぐにできる方法を
を追求していた時期がありました。
それはそれですごくいい経験。
でも、今は「一歩」が見えること。
これに幸せを覚えます。
—
今日、あなたは「一歩」が見えましたか?
ほんの小さな一歩、でいいんですよ。
一歩、がありましたか?
あったはずです。
だって、
何かしましたよね。
ごはんも食べましたよね。
仕事もきっと、したことでしょう。
家のこともしたはず。
こどものお世話も、しているでしょうね。
生きた、なら
一歩、あるいたのだ。
それが、「一歩」なのです。
だから、その一歩、というものに対して
どのような意識を持つことができるかで、
積み重なる幸福は変わっていきます。
—
この前は、ほんとうにたくさん歩いた。
タクシーでもよかったけれど、
あの高台から見下ろす曇り空の夕焼けとか、
ちょっとした豪邸(笑)に感化されたりとか、
細い道で出会った親子の会話とか
歩きながらする会話とか
そういう見れなかった景色
体験できなかったことがあることを思うと、
やはり、
ちいさくても
めんどくさくても
「一歩」
ってすごいなぁ・・・・と。
そう思うのです。
(しかし、もうしばらくは歩きたくない。笑)
——————
みたいなことをぽろっといったら、
「たまにはいいこと言うじゃん」とか言い出したうちの相方さん。
ふっ( ̄▽+ ̄*)
いつも言ってるぞ?
と思ったのはここだけの話。笑
(2015年12月過去記事 再アップ)