わたしの中には相反する二つの感覚が同時に存在する。
流れに身を任せているという感覚と、自ら選んでいる、という感覚と。
一見するとその二つは全く別のものなのだけど、
相反するこの二つの感覚は争うことなく同時に、それも相互的に関係しあって
ひとつのものを成しているようにも思える。
この二つの感覚をどちらかにしようと集中するとうまくいかない。
視点が狭くなって溺れそうになる。
大河につながる一本の川に流されながら、そこから見える景色が変わっていくのを観察しつつも、
その景色のどの部分を切り取るのか、ひとつひとつ自分が選んでいる、という感覚。
もし、流れに感覚を集中させたら、わたしはその流れを気まぐれだと思いコントロールするようになる。
そして、溺れそうになる。しかし、本当は溺れているのではなく、すでに流れと一緒になっているのだ。
見える景色が変わり行くことばかりに集中してしまうと、
自分がどこにいこうとしているのか、何をしているのか、今どこにいるのか、を見失って急激に不安になる。
これまた景色にばかり集中することも、よろしくないことがわかる。
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景色は確かにただそこに「在る」だけなのだが、その景色との物語は見ているこちら側の「中」でしか生まれない。
見える景色が語りかけてくる言葉は、自分の中で変換され、「自分の言葉」となる。
その積み重ねによって自分の人生というのは存在し、また流されていく間中、景色が変わり行くのと並行して自分の中に生じる物語も変わっていく。
先ほど見た景色と今見ている景色の間に関連性をうむのも自分の中で起こっていることであり、
先ほど見た木々たちが、その次にみた木々たちとの間に何かしら意味があるのではないかと思わせるのも、また自分ならではの物語であって、それは永遠に続いていく。
流されて生きる、という言葉は今の社会においてあまり良い印象を生まないように思うけれど、
人は誰だって無意識に流されて、そのつど選択を迫られて生きている。
流されていることを受け入れられないとその流れに抵抗したくなり、流されていることを受け入れたとしても、その受け入れが曖昧なものであればあるほど周りの景色を見る余裕は生まれない。
それこそ、「本当に流されているだけ」の生き方になる。
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何かに流されている、という感覚はわたしにとって生きる上での絶大な安心感の元となっている。
多くの人は、何によってどこに流されているのかわからないことに不安を覚え、それをなんとか自分でコントロールしようと
(あるいは、それをコントロールすることがそもそも生きることだ)と思ってしまう。
そうすると、景色との間に物語が見つけられない。景色が見えても、流れにばかり集中してしまえば
物語を紡ぐ余裕はなくなり、気づいたら何も残らずただ時間だけがむなしく過ぎているようにも、思う。
しかとみよ、この景色を。
そして己は、何をおもう。
そういつも流れに問われているような気がしてならない時があり、またその時は見えない何かとともに、桃太郎の桃のようにどんぶらこと運ばれているような気がする。
どこかにたどり着くこと、が目的ではなく物語を紡ぐことが目的ならば、安心して流れに身をまかせつつも、集中して景色を捉えることに意識を向けられる。
その時人ははじめて、自分の「目」「口」「耳」「鼻」「声」に気づくようになる。
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自分探し、という言葉が「自分の人生の流れ探し」のように聞こえることがある。
でも、本来自分探しとは、流されている間に移り変わる景色を自分の目や耳や鼻や口や声がどのように捉えているのか、を知ることであって流れそのものや、その流れの行く先を知るものではないような気がする。
そうやって割り切れば「自分探し」もなかなかいいと思うし、
「こんな風に景色を見れる自分もいるんだ」と知ることは、喜びでもあるから、やめられない。
そうやって考えた時、わたしたち人間という個人の人格を持った生き物は、
本来流れる川の水と同じであり、ただ水として流れている限り景色を見ることはできないから
小岩に流れがぶつかった時に生まれる飛び跳ねた雫や波のような存在だ。
本来は流れと同じものであるが、人の自意識が生まれるときというのは何かにぶつかって川の水が一部、空間に投げ出された状態のことを指すのだと思う。
そして、その時川を流れる水と、空間に飛び散った水は、一瞬、違った存在となる。
これが分裂だというなら、もともとはひとつでなければそもそも分裂も生まれない。
本の原稿を書く時わたしは、とにかく時間をかけて景色をみて、物語をつむぎ、何度もいろいろな小岩にぶつかって、空間に投げ出される。
そして、ある程度飛び散った後、いっきに川の流れに戻り、我を忘れて夢中で文字を打つ。(実際に、3日ほど夢中になって打ち続ける。)
また小岩にぶつかった時、一滴の水や波となってまたもや空間に投げ出され、景色を見るようにすすめられる。
その時わたしは、コーヒーをすすりながら、「どうしようか」などと考えていることが多い。
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人は、皆が同じ水である。ただ、流れている川が違い、また他の川と出会うか出会わないか、も違う。
アフリカで流れているアマゾンの川と、東京の多摩川は、海というひとつの大きな母体の中でしか出会うことはない。
誰かの人生と自分の人生が交わった、と思ったときは、きっとその人と流れがクロスしたときなのだろう。
しかし、人はいつだって自分の川を流れているし、またその川でしか見れない景色に挟まれている。
アフリカで流れているアマゾン川と東京の多摩川は、どちらも水であることに変わりはない。
そしていずれ母体で出会うならば、もともと同じだったと言ってもいいのかもしれない。
とにかくなにが言いたいか、というと。
わたしたちは、流されているのだ、ということ。
流されているそのものと本来は同じものである、ということ。
しかし、景色はそれぞれに違い、また景色をみているときわたしたちは一度川の流れから切り離される。
そのかけがえのない一瞬でなにをおもうか。
なにを自分の心のシャッターで切り取るのか。
それはいつだって変えられる。