久しぶりにこの記事にこのタイミングで辿りついたことに、感謝。
(2015年のすきな記事です。)
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全は一、一は全。一は全、全は一。
ほんとうに幸せな人たちの横にいると、笑顔になって、幸せになる。たとえ幸せを選んだつもりでも、その選択で誰かがそばで泣いていたなら、それはあなたも深いところで泣いている、ということだと思うの。
去年の今頃、腹に決めたことがあった。わたしは、わたしが幸せになったときに、周りにいるすべての人(ネットを介して、ではなく、リアルにそばにいる人)が、祝福してくれる選択のみをする、と。それから、選択はとても簡単になった。
全は一を含み、一は全を含む。今はすべてこれに尽きる。
偽りの幸せはそこらじゅうに溢れていて、目が眩むし行き先もわからなくさせる。今ならわかる。あのとき選択していた偽りの幸せは、すべて復讐にしか過ぎなくて、すべて罪悪感の払拭にしかすぎなくて。
ほんとうの幸せよりも、勇気はいらない。さざなみのように生まれる感情に任せていたら、それはいとも簡単に手に入る。
ただし、ほんとうの幸せはそのさざなみが落ち着いた頃に、突如やってくる。さざなみの生んだ「一」が、「全」である大元の海とひとつになったときに、だ。静かなのだ、そこは。そして、無限であって、すこぶるやさしい。
一が幸せでも全が不幸なら、不幸に包まれた一も、不幸だと思うんだ。ほんとうにね、もう。メリクリだよこのやろ(オチ、これでいいかい。)
?????
と、この小難しい文章は昨日わたしがFacebookでつぶやいた言葉だ。
去年の12月。
わたしは人生を変えるような大きな決断をした。
とはいえ、いつだって決断とはするものではなくさせられるものだ。
そのときもわたしは、突然やってきた摩訶不思議なできごとにそのまま決断を「せざるをえない」状況になった。
?
しかし、人間というものは感情的になると決断がにぶる。
その場の感情をとにかくなだめるための、とりあえず的な決断をしてしまうことが多い。
ダイエットに失敗するときなんかも、大抵はこの類の決断だ。
ただそのときだけは、そうではいけない、と思った。
昨日書いた記事もそうだったけれど、そのときも
「感じている感情と、ほんとうに願っていることは違う」と
どこかでピンとわかったのだ。
感じている感情は、とにかくさみしい、かなしい、辛い、
別の言葉で言うならばそれは好きだとか愛しているだとか大切だとか一緒にいたいだとかいう言葉にも変換できる。
でも、そのときだけはちゃんとわかっていた。
わたしの感じている感情とは裏腹な願いがあったし、その願いが達成されるためには、今この感情をなだめる決断をしてはいけない、ということ。
3時間も泣きっぱなしの間、ずっとそれだけが感覚的に残っていた。
『今、わたしは違う決断をしなければいけない』
それはまるで今までずっとしてこなかった、あるいはしたいと思っていたけれど完全に諦めた決断をするときみたいで。
とにかく感情が収まるまではこのままで様子をみよう、すぐに決断をするのはやめよう、と思った。
?
感情的になっているときに、大きな決断はできない。
だいたいが、今すぐ楽になりたい!とかこの感情を感じるのが嫌だ!とかはやくなんとかしてくれ!
とかそういう気持ちに応えるためだけの「願望」が出てくるからだ。
それは長期的に見て、全体的に見て、自分のことを幸せにする決断ではない。
とにかく今!なんとかしなければ!このままだと、壊れちゃう!
そういう防衛本能がわたしたちに願ってもいない願望を思考させるのだろう。
しかし、そのときのわたしにはもうそれは通用しなかった。
もうすでに、気づいてしまっていた。自分の心からの願望を。
?
気づいたのと、決意するのとはものすごく似ている気がする。
ただし、決意と決断はまた違い、それは「意すること」と「断つこと」の違いなのだ。
とにかく、わたしは決意した。そのときに、天に向かって、座っていた店内の全員に向かって、そして「あの人」に向かって。
わたしは、泣きながら、意識で宣言した。
『わたしを含む、わたしの体験するリアルな空間のすべての人が幸せである選択をします』と。
これはつまり、
全は一、一は全、の考え方だった。
?
自分だけが幸せであればいい!というときもあるだろう。
逆に言えば、自分の幸せ(だと思っていること)を選択した場合、
ちかくにいる人が悲しんだり苦しんだり辛い思いをすることがはっきりわかっている、
しかし、それを選択したい!という場合もあるだろう。
でもこのときわたしの中にはっきりと軸がうまれた。
わたしは、自分を含む全体が総合的に最も幸せなほうを選び、それを自分の幸せとする。
って。
言葉にすると、Mっけ満載なのだけど、もうこの際気にしない。
どこかではっきり認識してしまった。
「わたしだけが幸せ」なんて、ちっとも幸せじゃないし、
究極のわがままな要求って、
「わたしを含むすべての人が幸せな状況をくれ!!」ってことだった。
これには自分でもびっくりした。
?
心のどこかで、自分が幸せになれば誰かが不幸になる、と思っていたのかもしれない。
自分は、自分以外の全体と切り離された関係であり、それらとは全く関係がないものだ、とどこかで思っていたのかもしれない。
でも、そうじゃないとわかった。
わたし、そのものがわたしを含む全体を決めてしまい、
また逆に、どのような全体性に属するかによって、わたしという個人も決まってしまうのだ、と思ったのだ。
だったら、自分から、全体までくまなく幸せを選択しようじゃないか、と。
『人の幸せを願う』と書いたらちょっと気持ち悪い人に思われるかもしれないけれど、
言葉の表現として最も適切なのはこうかもしれない。
『人と自分の同時の幸せを諦めない』
そういうことだ、と思ったし、
わたしの心からの願いは、そこだった!
??
それは別に、周りにいる人に泣いてほしくないわけではないし、
もっと言えば自分以外の全体というのは
自分が見ている世界のことではない。
ネット上にいる人はもちろん、自分以外の人かもしれないけれど、
今ここ、目の前にはいないのだったら
それは「全体」とは、言えない。
だから、触れられる距離にいない人の幸せまで!ということではもちろんなく。
ただ、わたしが幸せでいたとき。
あるいはそういう選択をしたときに。
そばにいる人。
触れられる距離にいる人。
リアルな空間を共にいる人。
それを全体、と呼び、
かつその全体が幸せであること。
それをすべての選択の基準に、した。
?
おそろしいほどに、そこから自分の触れられる距離の中では何事も起こらなくなった。
もちろん、インターネット上や、触れられない距離の人たちとの関係はまた違うが、
少なくとも、会う人、一緒にいる人、横にいる人、そして触れている人。
その全体にいる人は皆が、笑顔なのだ。
基本的には、みなが、幸せなのだ。
もし、そうじゃないことがあったとすれば、きっとそれはわたしが幸せじゃないときなのだ。
愛じゃないときなのだ。
もちろん、人間だもの(ここで使う?)
愛じゃなくなることもあるけれど。
それがひとつの基準になったとき、わたしの中ですべてにおける明確な判断基準がうまれた。
『わたしも幸せであり、かつそれに触れる人も幸せであるほうを選ぶ』と。
??
話の〆に、余談むかし話を。
大学生の頃、わたしはとにかくはやく自立したくて、自分で仕事したくて、大学をやめようと思った。
親に内緒で不登校しながらも、自分でビジネスをはじめようとしたり
とにかく必死だった。
でも、不登校がバレて、怒られて、しぶしぶ休学に変更。
半年間休学している間、旅に出たり、した。
休学ももうすぐ終わるって頃に、アメリカに3ヶ月滞在した。
格安チケットでバスにのり、アメリカをほぼ一周し終わった頃。
わたしは大学に戻るか戻らないか、選択をしなければいけなかった。
突如そのときに、今まで芽生えたこともなかった感情が生まれた。
「大学を卒業したい」と。
なぜなら、そのときにアメリカにいた従姉妹のお姉から言われた言葉が衝撃的だったから。
『あなたのことを一番心配している人たちの意見を、よく聞くことが大切だよ。その人たちはあなたの友人よりも何十年もあなたのことを見て、考えて、気持ちを向けてきてくれた人たちだから。』
ふと、思った。
正直、親友と呼べる友人はそのときいなかった。
そして、周りの友人はわたしの突拍子もなく、チャレンジだとかカッコよく言っているもののまるでただの現実逃避のような行動を
誰一人として、批判も、否定もしなかった。言葉だけの応援はあったけれど、きっと誰もちゃんとわたしの人生を考えたことはなかったのだろう。
でも、不思議だった。
普通は意見がわかれるはずの、祖父母を含むうちの家族全員が、大学を中退することに反対だったのだ。
『全員』というのが、わたしの決め手だった。
もっと言えば、最後に「NO」のサインをくれたのは、わたし以上に突発的な生き方をしてきた従姉妹のお姉だったからだ。
彼女まで反対をしている。
わたしの「リアルな周りの人たち」が全員、反対している。
突然そのとき、世界、というか、全体、というか、かみさま、というか
なんか見えないそういう大きな存在に反対されているような気持ちになった。
そこで落ち着いたのだ。大学に戻ろう、と。
今ならわかる。
あれこそ、「全体」の声だったのだ。そして、そこには「わたし」ももちろん含まれている。
全は一、一は全。
もちろん、大学を卒業したことは一度も後悔したことはない。
?
幸せを諦めないってのはね、
ぶっちゃけ、超わがままな、ど真ん中に一番響く音がすると思うんだよね。
表現はひとそれぞれ。
でも、
みぃーんなが同時に幸せになる(もち、リアルな空間にいる人だけ、ね。全世界同時に、とかちょっと違うけれど)
そんなのが、おそらく全人類の求めるところなのではないか、と思うのだ。