愛情って、苦労して手に入れるものだと思っていた。
苦労して手にいれた「愛情っぽいもの」は、いわゆる脅してなんとか手にしたものみたく、
それを握りしめていないと今度は不安になって、結果的にその愛情を自分の手の中で握りつぶしてしまうのだった。
赤ちゃんの時って、苦労もなんもせずに、
ただそこにいて、ただ笑ったり泣いたりするだけで人からの注目を浴び、
ただ自分でいるだけでみんなが勝手に動いてくれたのに。
大人になればなるほど、自分以外の誰かになろうとしたり、
自分のできること以外のことをやってみてはダメだと嘆いたりする。
かといって、別に赤ちゃんに戻りたいとは思わないし、
自分にできること以外のことも挑戦してみたい、とは思う。
でも、愛情と苦労は別だ。
それらは隣接さえ、していない。遠く離れたものだと思い知らされたのは、結構つい最近のことだったかもしれない。
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どこかで話したことだけど、わたしたちが普段欲しい、欲しいと言う「愛」というのは
「興味」や「視線」や「関心」のことであり、
本当は愛して欲しいのではなく興味を持ってもらいたい、視線が欲しい、関心を持って欲しい、
というだけで。
愛されたいのではなく、ただただ「目立ちたい」だけで(笑)
それに気づくことができると、肩の力が抜けてすーってなって、
どっか空気が抜けたような感じに、なる。
なんだ、
興味がほしいだけなんだ、と。
どこか関心を持って欲しくて、チヤホヤされたくって、
それで一生懸命、がんばるんだ。
・・・と思えたら、なんだかそんな自分もかわいいなと思える気がするのです。
?
わたしが自分のパートナーに今心から思うことは、
「ただ、そこにいてほしい」という気持ちで。
何か特別なことをするとか
何かやってくれるとか
そういう気持ちもあるけれど、
それは単純に「さみしいから、かまって」「つまんないから、関心をもって」ってだけで
「愛してほしい」ではなく。
そういう自分がいるってことを思うと、
逆に自分に対してそう思う人もいるんだなぁ、と思うわけ。
「ただ、いてくれればいい」と。
自分が誰かに素でそう思うのだから、
自分だって誰かにそう、思われるよねと。
愛情って苦労して手に入れるものだと思っていたけれど、
力が入りすぎちゃうと握りつぶしてしまって形がなくなるんだなぁ、なんて。
でも、
普通にしていたら手に入る、のだとすれば
握りしめる必要もなく。
空気のようなものだとすれば、
焦って取りにいくこともなく。
ただただ、息を吸っては吐くように
「そこにはある」
という前提で、いきたいよね。
まぁ、ふとそんなことを思ったのです。