今の自分が旅だと考えたときに、
自分が今いるところ
自分がこれから向かうところ
自分が今まで歩んできた道、
すべてにひとつの関連性みたいなのが見える。
例えば、ちょっとしたミスがきっかけで
どこかに行かなくてはいけなかったとしよう。
身近な例でいうと、例えば携帯をタクシーにおき忘れてしまい、
それを取りに行かなきゃいけなくなったとする。
(ということが、実は昨日あって
相方の携帯を今日取りに行かなきゃいけないのですが。笑)
そういうことって突然舞い降りてくる予定のようなもので、
自分の頭の中で組み立てた一連の流れが突然、乱されてしまうようなことがある。
でも、
その乱れもひとつの旅の中にある
ちょっとしたサプライズかもしれないし、
わたしを行ったことのない場所へ、連れて行ってくれるギフトかもしれない、と。
仕事をしていても、そう。
今自分がいるところ、
向かおうとしているところ、
今まで歩んできた道の一連の流れがあったとしても
そこに対して頑なにならず、
そしてそれを
「絶対こうするべきである」と思わなければ、
もっと、そのときそのときにあらわれる
想定外の出来事に対して、旅人としての楽しみを見いだすことができる。
もっと自由に旅をするように、
日々の中に起こるサプライズ的な一瞬一瞬を切り取ることができれば、
もっと自分に対しても未来に対しても過去に対しても自由でいられる。
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自由というのは、切り取り方の問題であり、
自由というのは、視点の問題である。
今見えている世界が自分を拘束し苦しめるのだとしたら、
それはそもそも「立ち位置」の問題だったりもして。
「じぶん」というポジションに立ったときに、
自分からみえるすべては、
自分が「じぶん」に対して与えている価値とそのままイコールとなる。
今のじぶんを不幸だと定義するなら、
そのポジションに立っている状態で見える景色と角度、
そして切り取る世界はすべて不幸になる。
今のじぶんを幸福だと定義するなら、
そのポジションから見える景色と角度、そして切り取る世界はすべて幸福となる。
今、たっているところから、はじめよう。
今、たっているところは
みんな、旅の途中の1日であり、
旅の一点にすぎないのだから。
ある意味、もっと気楽にいこうぜ、ってことかもしれない。
ベランダで転がるこやつらをみて、
そんなことを思うのでした。笑